知る義務・権利と知らない幸せ

何が真実で何が虚偽であるか。
見方や立場が変われば、
こんなにも両極端に、大きく事実の見え方が変わってしまうとは。
今回の戦争のもっとも恐ろしいところは、
「情報の与える影響」だ。
人間は得た情報に感化される。
ロシアでは多くの人々が、プロパガンダに洗脳されているという。
この時代において・・だ。

何をどのようにインプットするか、しているか。
しなければならないか。によって行動が変わる。

今、毎日のように無残すぎる戦場の様子がさまざまなメディアから
発信されている。
これだけ長期戦になり、次々の想像を超えた無残な情報
ふれることはしんどい。

早く終結、終息してほしい。と、ただ、この1点のみ祈っているが、
この惨い状況は、もうあまり見たくない、知りたくない。

知らない方が幸せだ。
とも思うときがある。
知ることでできることもあるが、知ることが苦しすぎてどうにもならない
こともある。

ふと、ロシアのジャーナリストで、20年前チェチェンの紛争の取材から
殺害をされてしまったアンナ・ポリトコフスカヤさんの言葉が今、蘇る。
(先日受けた講義で衝撃的だった内容だ)
戦場のなかで ある子どもが普通に「耳が聞こえないことがうらやましい」
とつぶやいたそう。そう、聴こえなければ怖くない、悲しくない。

それと同じように、
見なければ、見えなければ、知らなければ悲しくない、怖くない。
そんなことを、ここのところ、想ったりする。
今、現実を見ようとする自分と、気が付けば電源をOFFにする自分がいる。
電源をOFFにすれば、この恐怖から逃れられるというのも、
また無責任だろうか。

情報との向き合い方。本当に大きな課題である。

とにかく、早く幸せになれる、安心できる情報に出会えるように。
ウクライナから平和の報せが入るように、心から祈るのみ。
1日も早く、一刻も早く・・・。

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