妹とは両親の介護を通じ、よく話をするようになった。
数年前までの家族全員が元気であった時代より、ぐんと距離が縮まった。
私が東京に暮らしていたときは、遠い存在だったと思う。
そして、海外に行くときには、この間何かあったらどうするんだろう?
思えば、NYのテロのときや、東北の地震のとき・・・妹は元気に飛び回る
姉のことを心配し続けていたのだと思う。
そんな時代も無事終えて、今は比較的近い距離で行き来している。
親の世話を手分けしてやっていたこの2年ほどの間、
「親が亡くなったら、まあその後自分たちもいつ亡くなってもいいね。」
という会話を何度もしてきた。
それぐらい、親を無事に送るということは、大きな仕事であったし、
それまでは何があっても・・とお互い張りつめていたのだとも思う。
そして、
「もうコロナで世界も終わりだから、親はいいときにいったね。しかも
コロナにかからず、ちゃんと思ったとおりの葬式もしてもらえて幸せな
人生だね。」
とも言っていた。
そう、これ以上生きていても、本当に大変だったのかもと改めて思うと
選ばれた時期の旅立ちだったのかも・・。
あれから1年を迎えようとしているが、この1年間、世界はさらに悲しい
方向に進んでいる。
「こんな戦争になってしまって、ある日突然、世界が終わるかもしれないね。」
最近はこんなやりとりもする。
最後については、私が妹より先に終わり、そのあとに妹が続く・・だと
理想であるが、最近は「ま、最後はみんな一緒かな。とにかくだんだん
近づいているね」
という一見、物騒なやりとりもしている。
わりと真面目に、そして冷静にだ。
そう、いつ果てるかわからない。
最近思えてならない。
天災か人災か、ウイルスか・・・。
単体ではなく、複合的な作用で、ある日突然、終わることもあるかも。
と考えている方が良さそうだ。
だから、楽観的に、そして無責任には未来を語りづらい今日。
でも、ゆうべのゼレンスキー大統領が日本に向けて行った
演説の映像を見ていると、
まさに、本当のあの演説の直後に何が起きるかわからない、
自らの生死もわからないそんなリスクフルななかで
それでもパフォーマンスも含め、冷静にメッセージを発し
明日を信じて、頑張りぬこうと思っている人の存在を思うと、
最後の瞬間まで、夢は未来は描くべきものだ。そう信じるからこそ
本当に道が開けるのだと、想えてくる。
昨日は静かな力を感じた。それもパフォーマンスなのだろう。
素晴らしい。
終わりは近づいていると思う。
はじまりがあれば終わりはあるのだから、当然だ。
それが、たまたま私たちが生きている時代に・・なのかも。
ということだけだ。
終わりを覚悟すれば なんでもできる。
そう信じて、前に進みたい。
終わりが大切。本当に、それに尽きる。
やれる人が、出来る人が前に進む。
まだ自分たちは、何でもできる。
今日は最後かも!と思って、全力で1日を駆け抜け、
そして楽しみたい。