この一週間は、新潟の皆さんに自分のことをお伝えするのに、マスコミ(新聞)
の力を借り、一方、お世話になった皆様には直接メッセージをお伝えする
という方法をとり、さらに個別のやりとりをした。ということで、マスコミとミニコミの併用により、長年お会いできていない人にも伝えることについて、自分なりに考えて実行してみた。これは予想どおりの反応があり、ありがたかった。
誰にどう伝えたいかによって、手法は異なり、工夫次第で効果もある。
昨今、その発信については、首をかしげることも多い。
情報の垂れ流しによる氾濫。
そして、フェイクニュースの増大。
何が真実なのか、虚偽なのか。
意識していても、だまされそうになる。
情報の入手は、よっぽど注意しなければならない、危険な時代だ。
今世界で一番の有名人のひとり、ウクライナのリーダーのフェイクニュースも
話題になっている。そういうことを考える輩も、世の中にはいるんだ。
いてもおかしくないんだ。目的により、情報はいかようにも操作できる。
簡単に検索できることは、本当は良いことじゃない。
と常々心の奥で思っているが、新たな発見があった。
昨日、留学生に講義をする機会があり、彼らが講義中ずっと、スマホを
使って、翻訳機(辞書)替わりにネットを使っている姿を見て、
この使い方には、納得した。こういう検索は有効だと。
スマホ片手に、言葉の不自由なしに勉強がはかどり、コミュニケーションも
進む。このような検索なら意味があり、こちらも助かる。
きっと賢明な学生さんは、さまざまな情報に接しながら、
何が真実かどうかも、きっと理解しているだろうと期待も高まる。
とくに海外から来て、コロナ禍に異国で生活している身であれば
情報との向き合い方も真剣だと察する。
私たちは、情報とどう接するか。
これからの時代を生きる人にとっては、見識やセンスが問われる。
そして、
やたら情報の洪水のなかに、浸っていては溺れてしまう。
情報との付き合い方は、生き方に直結してくる。
ときには、スマホから目を離し、ちゃんとした書物と向き合ったり、
良質な人と会い、議論をするなどそんな情報入手も重要だ。
昔は、人々はそうやって生きてきた。
週末は、あえてアナログの時間に身を置くというのも、良いことだと思う。
情報にふりまわされ、自分で考えることができない人間にならないように
日々、気を付けたい。
こういうときこそ、哲学的な心得があるといい。
なんのために生きるか。自分の人生をどうしたいのか?
根本を考えるクセをつけると、おのずと情報との向き合い方も変わる、
のではないかと思う。
とにかく、世界中の人が手のひらの世界に埋没しないように。
電車車内の乗客が常にほとんど、スマホを見て下を向いている光景を
みるたびに、そう思っている。