この17年間続いたひとつの仕事の節目を、どうやって
新潟県の人々に知ってもらったらよいだろう・・。
できたら、広報人らしい方法で・・。
そうだ、地元紙に投稿しよう!
と思い立ち、新潟日報の朝刊でおなじみの投稿
ページに原稿を書いて、メールで担当窓口に送った。
おかげさまで、この二十年、広報のことは自分でも学びながら
新聞のことは、どこにどうすればどうなるかは自分なりに少し把握
し、皆さんにお伝えし続けてきた。
今回は自分が実行する番だ。自らが発信すること。
但し、新商品の話でもないし、私個人のことであるから
ニュースリリースでもないということで、今回は、投稿コーナー
「窓」へ。もちろん載る保証はない。
載せるかどうかは、メディアが決めること。
以下は、送った原稿。
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17年間、出会った県内企業さんに、感謝とエールを送る春
名古屋市 今尾昌子
平成17年から17年続いた新潟での取り組みが、
この3月で卒業となる。 それは、新潟県の中小企業
の広報支援を行う仕事。通称「NICO」の名前で知ら
れている公益財団法人にいがた産業創造機構の広報ア
ドバイザーという役割。
「新潟県人は、モノづくりは長けているけれど、伝え
下手だから何とかしたい。東京や外にもっと発信したい、
力を貸してほしい」と、当時のNICOメンバーや新潟
の仲間から、ご縁をいただいたのがきっかけであった。
それから、春夏秋冬、数えきれないほど新潟に通うことに。
その間、下越が北で上越が南にあることや、新潟県は
南北にとても長い県であることを知り、そして雪と共
生しながら蓄積してこられた人々の忍耐強さを学んだ。
決して派手ではないが、真面目でじんわり温かい人が
多く、私を強く引き寄せた。
この17年間、さまざまな機会で業界業種を越え、と
にかく対話を重ねた。新潟県人以上と言われるほどに
新潟製品を愛用、いつしかわが家の冷蔵庫には、常に新
潟のものが保存されている。
新潟日報で応援する企業さんの記事をみつけたときは
本当にうれしくて、ともに 喜んだ日々がとても懐かしい。
これからももちろん、生涯新潟応援団であり続けたい。
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そして、3月17日付の朝刊に掲載された。投稿したのは
先週土曜の夕方、そして日曜一度、担当記者から確認連絡が入った。
これはいけるかな?さあ、今日かな明日かな・・・。
今週は毎日ちょっとドキドキしていた・・・。
昨日の朝7時すぎから、「新潟日報見ました」とまず県内の
企業さんからの第一報。
ご親切に写メで撮った記事のコピーも添付されている。
この方はいつも関連記事をこうやって送ってくれる人だ。
ありがたい限り。よっしゃ!載った。とガッツポーズ。
これで皆さんに一斉にお知らせができる。
おかげで夜になるまで、連絡が絶えなかった。
久しぶりのお電話、メールが次から次へと・:・・。
そして、皆さん感謝の言葉を寄せてくださった。
惜しんでくださった。新潟から離れてしまうと思う方もおられた。
(実はそうではない)
多くの方が、これからに期待を寄せてくださった。
うれしかったのは、私とのかかわりで、自社や自分の成長について
語ってくださったり、私とのいろんな思い出話。
どんなときに私がどんな反応を下かも覚えておられたり、
私との関わりで会社の今日があるというお声や、
気が重かった広報が楽しくなったといってくださる方も・・。
県の職員から、企業さんから、新聞社の方から・・とにかく
いろんな方が連絡をくださった。
新潟愛を感じたといって下さる方も多かった・・・。
こんなときもあんなときもお世話になった・・・と皆さん
心からの言葉を寄せてくださった。
本当にありがたいことだ。それに尽きる。
久しぶりに自分のことが新聞に載った。
しかも今回は自分から仕掛けた。
広報の仕事を新潟でしてきたのだから、自分から広報しないと。
それにしても、まだまだ新聞を読まれる人が多いのだ。
とくに新潟は新聞の存在感が多いのかも?
とにかく、一区切り。いいメッセージをお届けできた。
さて、今朝はもう次のアクションを思いついてワクワクしている。
終わりは始まり。人生はその繰り返しだ。
いかに楽しくするかは、自分次第だと思っている。
新潟は、私の心のふるさとのひとつ。と確信している。
※原稿の内容は、掲載時には分量の下限で一部カット
されていますが、掲載内容は変わりません。