重い言葉。軽い言葉。

最近の世界情勢を見ながら、思うことがある。
言葉の役割、言葉の重さ。

ウクライナでは、毎日多くの方が国外に避難。
すでに、15万人以上の人が西の隣国に移っているようだ。
なぜ、自分が避難しなければならないのか?
何ひとつ悪いことはしていないのに・・。なんで?

ある避難中の女性の涙ながらの言葉が心に刺さる。
「ただ、生きたいだけなのに・・・」
こんなに重い言葉はない。
この短いセンテンスから、いろんなことを想像しながら
もし自分だったら・・と思う。

20年ほど前のチェチェン戦争のことを
取材し続けたアンナ・ポリトコフスカヤが記した
本のなかで、毎日毎日爆音に悩まされる日々、
その惨状を耐えてきた男の子が
「耳が聞こえなかったら良かったのに・・」
と普段の会話と同じようなつぶやきのような口調で言った
という記述がある。
(先日のジャーナリズムの授業でこの事例を知った)

子供がさらりとこんなことを言うなんて。
この一言も重い。重いどころじゃない。
耳が聞こえなかったら、爆音に悩まされることがないというのだ。
聞こえない方がいいときがある。
見えない方がいいときがある。
知らない方がいいときがある。
この一言から、そんなことを思ってしまった。

一方、この厳しい戦場とは、別世界の豊かな、
一見平和なわがニッポン国。
若者も女性も男性も、暇さえあれば、スマホを見ながら
おそらく命にかかわらない、たわいもない
やりとりをしていると想像できる。
ここでは、上記のような、重い言葉はおそらく、あまりない
だろう。

平和なときの言葉は軽く
極限の世界、危機的な現場での言葉は、重い。

今混乱する西の国で、ある意味、もう少し軽い言葉が交わされる、
そんな日常に早く戻れたらいい。

そして平和すぎるわが国に生きる私たちは、
自由な人生を生きられるこの現実に感謝し、
この事態をしっかり理解し、自分が何をするべきかをしっかり
みつめ、行動したいと改めて思う。

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