生は瞬間、死は永遠か。

今年は、わが人生のなかで、もっともお墓通いをした1年だといえる。
昨年までは、ほとんどといっていいほどに、疎遠であった。
身近な人の旅立ちがあって、自らの行動がいやおうなしに変わる。
不思議なことだと思う。

墓の前で、お参りするというよりも、父に母に話しかけている
ときの方が多い。
「仲良くやっとる?喧嘩しとる?いいね。あんたらは・・」
と、まあ普通に話しかけ、
「ま、もう行くわ。また来るね。元気で」
もう見えない相手に、「元気で」と言うのもおかしな話。
実家では、写真に向かって、そんな風に話しかけている。
「あんたたちは、幸せやね~。」
「やれることはやるので、それでいいよね。」

今はそうする。自分が行ける間は、そうするだろう。
でも、いつか自分もいなくなる。
そのとき、墓や実家をどうするかの答えは、すでに頭の中にある。

ふと、見えなくなった両親の存在について考える。
すると、いろんな思いが広がってくる。
死んでも生き続ける。
誰かの記憶にある限り、その人の生きた証は消えない。と思う。
日本史、世界史、人類史を見る限り、そこに登場する人はすべて
もう生きていない。すでにいない、
ではあるが、知ることでその存在が蘇る。
生きた時間は限られた短い時間であったとしても、ずっと語り継がれたり、
学びの対象として、存在し続ける。
亡くなっても、後世の人々にその人生が確認され、生き返る。

生きる時間は短いが、その間に何を残すか?により。、
その存在は死から永遠のものとなる。
今、墓に行くのは、父母に会いに行くため。
亡くなっても自分のなかではすでに永遠。
こちらが忘れない限り、永遠に自分のそばにいてくれると信じている。

生きている時間を大切に生きることで、
作品やメッセージや子供などを残すことで、
それを通じて、
亡くなっても、永遠の存在になることができるのだろう。

生は瞬間。死は永遠。
これまで考えたことがなかった世界が見え始めている。

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