静かな未明。マンションの窓をあけると、階下の道路から、信号の歩道者向けの音声が聞こえてくる。ピポッ、ピポッ。
また、しばらくすると、貨物列車のガタゴトという音が遠くに聞こえてくる。
世の中は、眠ることなく、いつも動いているのだ。ということを感じる瞬間だ。
先日、父が亡くなったと聞き、ちょっと動揺気味に家を飛び出し、
移動しながら、落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせていたあの時を
今、思い出す。
自分の中では、超非日常の事態であるのに、それでも信号は赤信号にもなるし、
コンビニに入ると、いつも音でお出迎え。
世間は自分と無関係に平常モードだ。ということに気づかされ、落ち着く。
さらに記憶をたどる。母が亡くなった日のこと。病院から危篤の連絡が入り、急いで電車で岐阜へ向かおうとしたが、名古屋駅は、電車の遅れでホームに人が溢れ、係員が何度も状況説明をアナウンスしていた。
一瞬を争うぐらい急いでいる私にとって、それは残酷であった。でも、この雑踏の音で、もうだめだ。仕方ない。と諦めの気持ちもうまれ少し落ち着いた。
そして、どんなときも世界は自分に関係なく動いているのだとも感じた。
どんなときにも、第三の音があることで、
われにかえることができたり、日常を感じたりすることができる。
そのことは大切だ。
人が、時に海に出かけ、波の音を聞きたくなったり、自然に包まれ、鳥のさえずりに出会いたくなるのは、第三の音だから。
自分が住む同じ世界に、自分以外のいろんなものが棲み、生きている。そして、小さな自分の存在を、より自覚できることで、目の前のことがなんでもないことだと思えてくる。
世間から見れば、親の死もよくあること。誰にでもあること。だから大丈夫とも思えてくる。
第三の音に耳を済ませよう。
朝のクラシック音楽もそのひとつ。
第三の音は、
自分をみつめさせてくれる大切なコミュニケーションツールだ。