墓に見合う人生か。

この半年、わが人生で経験なかったほど、お墓に行く回数が増えた。
とは言っても、とくに宗教心があるからではない。
単に、親のことについて、今できることはしておこうと思うから、
花をもって足を運ぶ。気になるので、毎週通う。
父の施設と、母が眠るお墓と、実家と・・・。花を3つに分けてそれぞれに
飾ったり、少しでも気持ちが途切れないように・・そんな気持ちで
お墓には足を運ぶようになった、この半年余り。
でも、手を合わせているのではなく、
墓石に水をかけながら、花を交換しながら、
「敏子さん、あんたは、幸せだよね。本当に・・・」
と、生前話していたように、母に向かって普通に言葉を交わす。
「もうすぐ、お父さんここに来るわ、待っとりゃー(待っててね)。」
「じゃ、もう行くで(行くわ)。また来るわ」
という感じだ。会いに来ている感じ。
間もなく、父もここに来るので、母も寂しくなくなるだろう。

さて、親の墓について、当面はこれで良いと思っている。
でも、実際、自分たちが年老いていけば、こんな風には通えず、
また、きっと考え方や捉え方も変わってくるから、
こんな風にはならないかもしれない。
亡くなって何十年も経てば、お参りする人もいなくなり、
荒れ果てて・・・そんな例も多数ある。

一方、何十年経っても、百年以上経っても、
きれいに守られて、朽ちることなく
絶えず訪れる人がいる・・そんなお墓がある。

以前、何度か通ったベートーベンのお母様マリアさんの
お墓は本当に、印象的であった。
ベートーベンをこの世に生んだ偉大なお母さまゆえ、
亡くなってから200年以上経っても、地元の人が
世界からの来訪者が絶えず、きれいにしてある。
人々はこのマリアさんに感謝の祈りを捧げる。私も同じ。
また、ブエノスアイレスのピアソラのお墓に行ったときも
感動した。あの墓地には今は、マラドーナも眠っているだろう。
世代を越えて、時代を越えて、足を運び、祈る人が絶えない墓。

と、こんなお墓は意味がある。
ということは・・・。
偉業を成し遂げれば、後世尋ね、祈ってくれる人もいれば
お墓は意味がある場所となる。
でも、時間とともに忘れられていく人で終わるならば、
何もなくてもいいような気がする。

今のところ、私はお墓無用派。
お骨を好きだったいくつかの川へ撒いてほしい・・と
思う。そして川から海へ・・。
と、その方が自分に合っている。
墓をもつ、残すならば、
墓に見合う人生であるように、まずはしっかり
生きておくべきだろう。
墓じまいをする人も増えていると聞く。
墓の意味が、これからどんどん変わっていくと
思う。
とにかく、後の人に迷惑をかけず、負担もかけず。

ああ、訪ねてみたい、あの人に会いたいなと
亡くなってもそう思われる人であるように。
墓の有無よりも、人の心に深く刻める存在に
なりたい。できれば・・・。
墓地を歩くことで、いろんなことが浮かんでくる。
見方によっては、人生の終着点としての墓。
ではあるが、やはりそこに向かうまでが、一番重要。
墓だけ立派でも意味がない。

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