コロナ前に歩いた、嵯峨の竹林のことを思い浮かべている。
寒い冬。日陰からしゅっと伸びた竹たちを見上げると、その先に空が見えた。
光を感じた。未来を感じた。
人生は、いくつもの節目を経て、成長していくものだと。
節目を越えると、まるでトンネルを越えたように、光がさすのだと。
そんなことを、その竹林と重ね合わせて考えている。
節の数が多いほど、その竹は強いのだと聞いたことがあるが、
人の一生もそうなのかもしれない。
喜怒哀楽、全ての感情を抱きながら、またそれらを糧にしながら
今日へ、明日へと進んでいく。
深い悲しみは、大きな節目となる。
それを乗り越えることで、人はしなやかに、たおやかになれるのだと
思う。
最近、とある方が、「どうぞ悲しみを乗り越えてくださいね」
という言葉を投げかけてくださった。
おそらく、その方にも同じ経験があっての、思いやりの言葉だと
受けとめた。
人はその寿命が尽きるときまで、生きていかねばならない。
乗り越えていく。それが自然だ。
うずくまっているだけでは前に進まない。
前を向いて、上を向いて、乗り越えていく。
今、あの竹林の中を歩いているときの緊張感と感動を思い出している。
私の人生は、どの竹だろう?
と、今度歩くときは、そんなことを思いながら、竹の成長と自分の今と未来を
重ねてみたい。
乗り越えて、強い竹になる。
それは、しなやかで、たおやかで。
そんな存在になるには、大きな節目が大切なのだ。