観光地とは何かを考えるに「連休」という時間は最適だ。今回、悲願の「雲仙地獄」という場所を訪ねた。遠藤周作の小説や、長崎や海外の資料館で見聞きし、わが目を疑った事実、本当にそんなことがこの世にあったのか?。という場所のひとつだ。その前に知った、京都から引き回され、長崎市の西坂で処刑された26人のキリシタンの現実も強烈に心にささり愕然としたが、この雲仙地獄も、江戸時代、踏絵に応じない教徒たちを山に連れて行き、長きにわたり懲罰を与え、温泉の熱湯のなかで殉死させた・・という恐ろしく、悲しみの殉教地だ。今もぶくぶくと温泉が涌き、硫黄のにおいが強烈なこの地に、大きな十字架が立っており、そこには殉教したキリシタンの方々の名前が刻み込まれている。そこにたどり着いたとき、涙なしには立っていられなかった。車も電気もない時代にこんな山奥につれてこられて、想像を絶する惨い懲らしめに遭い、それでも神を信じ亡くなっていった聖人たち。無言の悲しみが聴こえてくるようだった。そのすぐ後ろを多くの観光客がハイキングしながら、記念撮影などをしている。今は温泉地としてにぎわうこの町に、こんな歴史があったとは。いや、このような苦難の歴史があったからこそ、今日のような温泉街も生まれたはずだ。先人の苦しみや悲しみがあり、祈る人がいて、人が集う・・。そこが、その結果観光地となったのか・・。複雑な思いになる。
その重い気持ちが消えないまま山を下ると、普賢岳の噴火を記念して作られたという博物館の案内をみつける。これも苦しみの結果、生まれたものか?違う興味が働き、足を運ぶことに。
25年も経つ、普賢岳の大噴火から自然の威力を学ぼうという趣旨で生まれたのは、サッカー場の横の立派なミュージアム。両者とも復興事業として誕生したようだ。いかほどのお金をかけて作ったのだろう。しかも、入場料1000円。地方の資料館にしては高額だ。なんだろうと思ったら、お金がかかった内装。それに加え、資料館の目玉は、普賢岳噴火時の様子を再現した8分のスペシャル?シアターの存在。資料館内では、噴火時の映像がそのままモニターで流されており、それだけで十分なのに、現実をそのまま見せてくれるだけで十分なのに、映画としてしかも五感でその噴火時の様子を感じることができるようにと、振動・爆音・湯気などなども仕掛けられているハイテクなシアター。有名な俳優がナレーションしている、音楽もゴージャスでまるでテーマパークに来たような、おかしな感覚。なんだ、この資料館は?自然災害を美化しているような?当時の作り手にすれば画期的であったかもしれないが、なんという税金の無駄使い。一歩、外に出ると噴火後の土石流で流された現実の家屋の屋根部分が展示されており、こちらは当然無料。この方がよっぽど、伝わってくる。ああ、家がこんな風に流されてしまったか・・現実のこととして胸に刻まれる。これだけでいいのに。余計なテーマパークは災害の記録には不要だ。
いずれもその町の観光スポットになっている。
東日本大震災のこともしばらくしたら、こんな風になる?いや、それは賛成できない。
現実は現実のものとして、その苦労を風化させないため後世に残す、伝えることは、もちろん必要であるが、それをネタにして。過剰な演出をすることで、観光化しようとしてはいけない。火山があるから、温泉になり、観光地になる。火山があるから噴火もする。その現実を受け入れ、過剰にではなくそれを自然に受け留め、共生していく必要がある。
その土地はなぜ観光地になるのか?それは悲しみや苦しみがあったから、それを乗り越えてきた歴史があるからではないか。
いいことだけの観光地はこの世に存在しないのではないだろうか?
箱根のことも気になるが、観光地になるということには、両面あるということの認識と「共生」が関係者も観光客にとっても必要だと思う。
(もちろん、被害は最小限であるべきであり、そのための注意・警戒は不可欠だ)
観光地になろうとして努力することも大切であるが、本当に素晴らしい観光地とは、インスタントに創られるものではなく、やっぱり歴史を重ねて、その結果、人々が集まってくるのだ。