有名と魅力の関係を考える。

何かと自分が変人的思考で困ることもあるが、最近は、世界遺産登録というものについて考えさせられることがある。登録すること自体が目的になっている自治体なども多いけれども、もちろん現代に生きるものとしては、過去の歴史遺産が世界に評価されることは素晴らしく、それをきっかけに町が活性化するのはとてもいいけれど、それがきっかけで、本来のその歴史遺産の良さが半減する例も少なくないため、慎重であることも必要だとも思っている。先日とある国宝といわれる教会に行き、静かな祈りの場所といっているにも関わらず、教会内にずっと解説のアナウンスが繰り返し流され、撮影禁止と書いてあるのにも関わらず、アジアからの観光客がスマホで撮影しまくり、静寂とは無縁。次々と訪れる観光客。「ここに来た!」ということのためだけに来ているのでは?と思わせる態度・・。ああ有名じゃなければもっと静かに見学もでき、信者の方もお祈りできるのに。と失望した。ここはまもなく世界遺産にもなるので、このマナーの低下はさらにひどいものになるだろう。もともとの存在の意味もわからないで世界遺産だから~と訪れる人も増えることには正直反対だ。それをきっかけに勉強し、学び、大切に守るというならば、大賛成だ。どうも有名になることで、観光地になることで、本来の魅力を亡くしていく例も少なくない。
産業にせよ、宗教にせよ、そして天災にせよ、先人たちのご苦労と努力があったからこそ、その遺産が存在する。それを永遠に保全するための登録という意味では大賛成だ。しかし、登録されていなくても地味であっても、素晴らしい歴史的遺産は各地に存在することも忘れてはならない。私は個人的にはそちらの方に興味がある。
ミシュランとかいくつ星とか騒がしいグルメの世界でも、ランキングを競ういろんな世界でも、その業界の中で、あるいはそれが興味ある人にとって意味あるだけで、興味がない人、騒がれなくない人、相対的評価をされたくない、絶対価値を求めている人にとっては関係ない。
自分で調べたり、考えたりする面白さがわかっていれば、知名度に踊らされることなく、充足した体験や旅ができるだろう。
観光が発達する国は、経済力的には成熟期にある国だという。過去の遺物に頼る産業だからだ。日本もそうなりつつある。観光はいいけれど、表面的なことではなく、もっと本質を辿る工夫、努力をすることで、量だけでなく、質の良いゲストを迎えることができるのではないだろうか。観光とは現在にいたるまでの先人の苦労の歴史を学び、存在に感謝する体験だと思う。
もともと、個人的にはガイドに載っていない、誰も知らない、未知なる辺境なる世界を探すのが好きであるから、「世界遺産」になった途端に興味を失う場所が出てくることが予想され、寂しくもある。

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