野菜を見て、その作り手の人生や背景までを思う。

最近、どこの町に行っても、その土地の野菜を求めて購入することが楽しみのひとつとなっている。たとえば、トマトやキュウリといったどこででも手に入りそうなものであっても、旅先の野菜を試したいと思う。そしてできる限り、道の駅のような直売所をたずね、その日の朝に収穫され、売り場に持ち込まれた、そして農家の方の顔や名前が見えるものが良いと思っている。
さて、今回長崎は外海地方の直売所で買ったじゅがいもや玉ねぎを取り出しながら、『長崎そとめのカレー』でも作ってみるか。と勝手にネーミング。そして野菜たちが入っている袋に印字されている農家の方の名前を見ながら、ああ、そとめの〇〇さんか、こちらは☓☓さんか・・と会ったこともない農家の方を想像する。
そして、ふとこんな思いも浮かぶ。この人たちは農業をされ、直売所に毎朝納品に来られているのだろうが、それぞれの先祖はどうであっただろうか?この人のおうちはキリスト教徒だったか?この人はもしかしたら、隠れキリシタンだったか?この家は??もしかしたら、それぞれの野菜の作り手たちが、それぞれ悲しい歴史を背負って生きてこられているかもしれない。あるいは、野菜の収穫を神様にお祈りしてくださったおかげで、こうして私もその野菜をいただけているのかもしれない・・・。すると、野菜を手に入れた私自身、まさにその方たちの祈りや、歴史も含めたすべてをいただき、味わう喜びをいただいていることになる。悲しいときも、うれしいときも、人はそれぞれの仕事をしながら、生きてきた。生きつづけてきたのだ・・。その収穫物である野菜たち。
そう思うと、じゃがいもひとつも、プチトマトひとつも、大切にしなければと思えてくるのだ。
その土地を知り、そこでできたモノを知り、感謝していただく。地産地消とは、本来、単に地名の表面的なことではなく、どんな人がどんな思いで・・というところまで深く理解しながら、いただくのが正しい。・・・と、険しい土地の農家の皆さんの野菜をいただいて、そんなことを考えたりもする。もしかしたら対立していた人同士の野菜を私が一緒に購入しているならば、ひとつの料理の中で、和解となればいい。ふとキッチンに立ちながら、そんなことを考えた。私なりの食育だ。ところで、「カレー」これも南蛮文化と無縁ではないはずだ。

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