時代、社会、障がいのある人。

今、パラリンピックが開催されている。これから後半戦に向かう。
アフガニスタンの選手も、なんとか出場できるそうだ。それは良かった。
とにかくコロナ感染に気を付けて、無事に、各選手がそれぞれの力をフルに発揮され、無事に終了できることを祈るのみだ。
パラリンピックで、さらに感染者が増えないことを切に願う。

障がい者のスポーツ、そして障がい者のアート。
最近は、さまざまなジャンルで障がい者の皆さんの社会参加の機会が増え、
共生社会という言葉も、特別には感じなくなってきた。

ふと、自分の幼き日のことを思い出す。
障がい者・・・。日常のなかに、特別な存在として、差別的に隔離、あるいは冷たい視線を浴びていた時代を思い出す。
子どもの頃、当時のいわゆる精神病院に何度か見舞いについていったことがある。そして、そこでの運動会にも参加したことがあり、障がいをもった患者さん(当時は障がい者=患者)たちのあんぱん食い競争など・・を見たか自分も一緒に参加したか・・。今もその特別な場面を思い出す。
また、岐阜駅の地下道で、手足のない傷痍軍人らしき人が、地べたにはいつくばって、物乞いをされていた光景も忘れない。ときには、アコーディオンなど楽器を弾いていた人もいた。
戦後の日本の傷跡。障がい者を日常の中に入れることなく、高度経済成長の道を進む日本と障がい者の世界はパラレルな存在であったように感じ、いつも「なんで?なんで?」と思っていた。

そして、今もアフガン、イラクでの戦争、テロ、さまざまな内紛も含め、戦争が世界中で続いている。そこで必ず、障がい者が生まれている。

社会が進化して、障害ある人が、自分の能力を活かし、自らの道を開ける時代になった。幸せな時代になった。
この共生の意識と応援をしながら、
いかに戦争など人間の仕業で生まれる不幸を止め、罪のない人たちが、ある日突然障がい者になる日がなくなるようにできるのか。

私は、華やかなスポーツの祭典開催と同時に、今も世界で死傷者、障がい者を生み出す不幸なことが起きていることに注視したい。

一部の人にスポットが当たるよりも、戦争がなくなり、傷、後遺症を負う人がない世界。それこそを目指したい。
日本で起きている、このパラレルな世界は、世界で見ても、やはりパラレル。
今も地雷で、爆発で、手足を亡くしてしまう人たちがいる。そのことを
食い止めなければ。

運動会は、障害があってもなくても、みんな一緒に楽しめばいい。
と、いつも極論をもってしまう私には、子供の頃からの、障がい者への意識が消えない。という背景があるから・・・。

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