デジタル。平成の時代は、この技術により、大きな社会的変化を遂げた。
昭和までのアナログ、平成からのデジタル。
ここで、社会、世界は大きく変わった。
社会構造も、モノづくりも、そしてコミュニケーションも・・・・。
そのなかで、もっとも象徴的なのは、「写真」の役割だと思う。
今、合間を見ながら、実家の片付けを続けているが、
一番、そのボリュームに驚いているのが、「写真」。
母は、隣町の写真屋さんに半世紀以上、せっせとプリントをオーダーし、
何かコトあるたびに写真をとっては、同じ写真を何枚も焼いてもらって、そして近所の人に配る。たとえば、旅行にいっても、その写真を配るところまでやって、ようやく旅行が終わる。ということをくりかえしていた。
そして自宅でも多数、保管。アルバムに入っているものも、袋のままになっているもの、いかに整理できていないかは一目でわかるが、そのときそのとき、気が向けばアルバムに日付やタイトルがついていて、でも未整理で意味不明。
いかに気ままに、写真で、日々のちょっとしたイベントの余韻を楽しんでいたかがわかる。
母自身が若き日までの写真もある。当時はモノクロでサイズも小さい。
昭和40年代ぐらいからカラープリントが登場しはじめる。そして素人でも簡単にとれる時代になり、写真が身近なものになり・・・。
そこからの写真の数もどっさり・・。晩年になっても、旅行を続けている間、写真屋さん通いは続いていた・・・。
ということで、今、親の人生は山盛りの写真とともにある。
正直、最初は丁寧に1枚づつ見て、「これは、あの人に、この人に」と
分けて機会あれば、その人にさしあげようと思っていたが、あまりの量の多さにだんだん面倒くさくなってきて、とくに集合写真や似たような写真は廃棄・・。
写真を見始めると、親の人生を垣間見ることができる点では楽しいが、時間もかかり、整理がはかどらない。
などなど、写真の処分には時間がかかりそうであるが、そのなかに、父や母の人生の輝きをみつけることもあり、ないがしろにはできない。と、矛盾の壁。
話を続ける。
あまたある写真と、人生。
今は写真を整理するプロも増えているそうである。
写真との付き合い方は、それだけ多くの人々の共通の課題であり、人生の整理ともかかわる、大切なテーマであるといえる。
50年後。人が大切な人の遺品整理をするときに、こんなに多くの山のような写真を目の当たりにする人はどれだけいるだろうか。
おそらく、プリントになっている写真は、選ばれた限られたものだけということになるだろう。
しかし、プリントにしないと、人は長くその写真を見ない。
長く写真を楽しむには、プリントというアウトプットが最適だ。
今は誰もが、いつでもなんでも撮って、瞬間楽しんで、公開して、シェアして・・。そして削除。大切な写真だけ保管・・でも、あまり振り返ってみることは少ないかも・・・。
今は、写真を撮る行為こそが、国民の社会参加、積極的なコミュニケーション活動のひとつとなっている。その場限りかもしれないが、撮ることと、すぐ共有することを楽しんでいる。
それよりも、できれば人生をふりかえるときに、写真を見ながら、しみじみ生きた道を味わい、
「ああ、こんな風に生きてきたね~」と自分も、残された人も思いをひとつにできる。写真がそんな役割を果たせるといいな、と思う。
隣町の写真屋さんは、
「あんたのお母さんのおかげで、うちはこれまで店をやってこれた。」と言い、葬儀にも駆けつけてくださった。
昭和の時代の、写真屋さんとの付き合い方。
しみじみする。
だから、捨てられない。でも、捨てなくちゃ・・。の日々は続く。
母が人に配りきれなかった、袋に入ったプリントだけは、
届けたかった人たちに、ちゃんと渡しておきたいと思っている。