コミュニケーションしないコミュニケーション。

街のある店の前で、店員さん同士らしき、若者たちが話している。
その前を通ったら、聞こえてきたのが
「それ、やばくない?」
という言葉。
思わず、どっちのやばい?なんだろうと思ってしまった。
まったく会話に関係ない私が、ドキドキするそんな若者の会話。
やばいの意味は、昔とは違うのはもちろんわかっているが、
その言葉は、相手によって、取り方がいろいろなので、
思っているように受け止められるかどうかは別の話ということになる。

他にもこんな会話が身近にある。
「もう、いい!」
その「いい」は、グッドなのか、その反対なのか?わからない。
「どっちなの?どっちの『いい』なの?」
と思わず聞き返す。

緻密な、きめこまやかな、言葉の意味をきちんと確認するコミュニケーションは
さぞかし面倒。だから、どっちとも取れる言葉を多用し、言いっぱなして、
受け入れ側のいいように解釈する。聞き返すこともしない。だから、
伝えたいことが伝わる。とは限らないことが多い。
なんとなく、言葉を発しているだけ。

表現がうまくないかもしれないが、
点と点のコミュニケーションの時代があった。
ひとつひとつの言葉をきちんと確認しながら、理解されていることを感じながら会話を進める。この会話は内容も深まる。
言葉を考え、交換するという、きわめてインテリジェンスなコミュニケーション。交流することでお互いが高まる。大げさにいえば、人生が楽しくなる
そんなひとときにもなる。

一方、今は線と線。ときには面と面。
どう理解されてもいいようなあいまいな意味の言葉を投げて、
それを連呼するだけ。
「やば」「すごい」「まじ」「チョー〇〇」
感じるところが違っていてもいい、大味な言葉を多用する。

言葉の力が劣化してきている。
言葉を紡ぐとか、重ねるとか、会話を深めたり、考えたり・・・。

もっともっときめこまやかに言葉を交換し、知る喜びを楽しみたい。
今、
スマホに向かい、ネット検索で容易に物事を浅く知ることで満足してしまい、
自分で考え、しっかり人とコミュニケーションをすることから逃げている。
そんな傾向もあるように思える。
このことは、とても危険だ。
コミュニケーションの本質を、今こそ、問い、大切にしたい。
言葉の力。人間に残された大切な力であることを忘れずに。

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