今こそ、清貧を学ぶ。

一時、「清貧」という名がつく本が流行った時代があった。おそらく時代がその反対の流れになっており、その教訓として、この本がよく読まれたのだろう。
大量生産、大量広告、大量消費・・・は、まさにその対極にあった。
そして、今もまた、清貧について意識することが、大変重要な時期にある。
経済優先という面だけでなく、情報についても同様だ。
情報が氾濫し、何事も、むさぼるような生活は、清貧の世界とは異なる。
今、モノも情報もあふれ、正しい判断がつきづらい時代になってきていることに
気づく必要がある。

また、自分中心の生き方、モノの考え方も見直すべき時期でもある。
自分のこだわりを捨て、与えられたもの、すでにあるものや周囲の人を大切にしながら、そして謙虚に、感謝をもって生きる。
自分が取るに足らない存在である、貧しき存在であるということを知ることから
清貧の精神ははじまるようだ。

現代のオリンピックの過剰消費、無駄なことは、まったくこの清貧に反する。
儲け主義ではなく、利己主義ではなく、同じ世界で生きる人たちが、その子孫たちが末永く明日を見られるように、自分を律し、わきまえて、生きていくことが
大切だ。

モノが豊かでも、心が貧しい人は、本当に気の毒だ。
モノがなくても、心が豊かな人。そうありたい。

そろそろ、私もそちらの方へ向かっていかねば・・。
貧しいという言葉・・。よく見ると、貝を分ける書いてあることに気づく。
そう、皆で分ければいい。シェアする気持ち、行動のことだ。
貧しいとは、本来そういうことなのだ。

清貧から教えられることは、とても多く、また深い。

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