「感動」について、改めて問う時間。

感動。心が動くこと。生きていく上で、私たちが、心豊かに生きるためには、
大変重要なことだ。

感動というと、多大なお金を使って、仕込みをして・・という場合もあるが、
お金をかける感動というのは、ある意味、感動されて当たり前であり、ビジネス的であり、意図され、つくられたもの。一過性である。
自分が考える、本来の感動とは、押し付けられたり、これでもかと、示されるものではなく、じんわりと心に響いたり、目に入ることで、心がきれいになるような・・そんな自分と世界との交わりである。

今回のオリンピック。多大なお金をかけて、建物を創ったり、いろいろクリエイティブらしきことをやって、そして開会式も・・。とにかくお金がかかっている。このお金があったら、貧しい国に、人に送ってほしいと思ってしまう。
見た目の立派さは、どうでもよく、素朴でシンプルが良い。
お金をかけなくても、普通に競い合うだけで、アスリートは力を発揮できるだろう。華美であることよりも、安心安全であること。時期も含め、そちらが最優先だ。選手たちが、何の不安もなく、のびのびとその力を発揮されるところで、人々は感動するはず。
もちろんこの環境下でも、感動は生まれている。兄弟で金メダルをとった選手たちのように。純粋に力を発揮する人には、理屈抜きで美しいと思える。
(今回は、感染大丈夫かなと心配してしまう自分もいるが・・)

話を戻す。
お金がかかった豪華な世界に感動するのは、もう卒業。
それよりも、日常の中に、小さな感動をみつけよう。
野に咲く花、小さな親切、きれいな歌、やさしいピアノ、美味しい一杯の珈琲、
暑いのに一生懸命生きている小さな生物たち・・・。
純粋さのなかに、小さな感動をみつけ、それをエネルギーに生きていこう。
一生懸命、まっすぐ生きる人を見て、そのさまを見て、人は一番感じる。
それがいっぱい感じられれば、心豊かに、優しくなれるだろう。

この2週間は、感動について、考える、貴重な時間かもしれない。

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