この1年半余り、コロナ感染は、世界中に衝撃を与え続けている。
こんなにも、日々の暮らしが、仕事が、社会が、コミュニケ―ションが変わると
思わなかった。
自由に活動できない反面、ネット社会で人々は交わることを覚え、伝えることの容易さと、伝わることのむつかしさも学んだ。
当たり前のように必要と思っていた「移動」「会食」が、なくても大丈夫ということになり、これまでの「消費が美徳」の幻想から、経済活動は一体何か?と思うようになった。外に出ない分、家族との絆が深まった人もいれば、閉塞感のなか、関係が壊れ、孤独になる人も増えた。
人が動かない分、売れなくなった。人が使わない分、自然が回復した。
人間には限界がある。コロナには勝てない。ということを学び、これまでの驕りを反省する機会となった。
・・・と、書きだしたらキリがないけれど、コロナは、21世紀を生き始めた私たちに多くの問いかけを与えた。
そして、当たり前が当たり前ではないこと。に気づかされ、当たり前であったことに感謝の念を抱くようになった。
だから、コロナは少なくとも、私にとっては意味がある。
そして、このオリンピック。
なぜ?今、なぜ、無理やりに?誰のため?何のため?
疑問符だらけで、何一つ納得することがないまま、おそらくそう思われる方々が多いなか、それでも強行されるイベント。
お金と時間の無駄遣い。権力の乱用。感染拡大をさらに引き起こす狂気の祭典。
こちらも言い出したらキリがない。
しかし、もう一怒一憂せず、
俯瞰してみることにする。
決して、その中には入らない。そこでの感動はノーサンキューという気持ち。
少し離れてみつめたい。
終わったとき、何が残るだろう。
今そのことをイメージしようと思う。
この経験が、人類史上、例のない。意味のある教訓になるだろう。
残念ながら、日本にとっては、全然喜ばしいことではない。
コロナは神さまのギフト。今回のオリンピックも同じだ。
人間よ、考えよ。
ピンチとは、人間に与えられた贈り物。
と考えることにする。
だから、意味はある。と思うことにする。
真実、本質を見極めるためのツール。こうあってはならないという
教訓のギフト。
今日から、そう思うことにする。
メダルの数の多さよりも、感染者の減少を心から祈りたい。