鎮魂ではなく、共生の曲を。

高校生のとき、ある先生が急死された日のこと。
音楽科に通っていた私たちは、授業のなかで、モーツアルトのレクイエムを皆で聴いて、ご冥福をお祈りする・・・そんなことを最近、思い出した。
そのとき、モーツアルトのレクイエムに衝撃を受け、音楽によって、死への哀しみがより強いものになると感じ、恐怖も感じた。
葬送行進曲、鎮魂曲・・。人の最期を送り、祈る場面には、賛美歌以外にもさまざまな音楽があり、人々の感情をかきたてる・・・。
さまざまなテーマが、音楽や美術では表現されるが、「死」の取り上げ方も、実にさまざまだ。

さて、母が他界して(この言葉も少し慣れてきた)3か月が過ぎ、季節も移った。半年ぶりに明日演奏会を行う。コロナ対策してのさまざまな条件付きの開催ではあるが、ありがたい生演奏の機会だ。

この半年の間には、わが人生も大きく変わった。
母がいた半年前、いない現在。
この変化も何かしら表現せねばと思いつつ、悲しみをカタチにするのはなかなか
難しく・・・。

でも、やはり、こういうときは、まさに神が降りてくる。
思っていると、意識を集中させると浮かんでくるのだ。
作品づくりとはそういうものなのだろう。

暗く寂しい曲ではない、何か違う世界を表現しなければ。
そこで、
鎮魂ではなく、共生にしようと思った。
いないことを哀しんでいても、その感情は消えないし、戻るわけではない。
生きている者は、次にいかねばならない。
いないのではなく、見えないだけ・・ととらえることにする。

ということで、新しい曲を明日演奏しようと思う。
人生の節目で、着眼点や、発想を変えて、作品を作り続ける。
そうすることで生き方も変えられるはず。

音楽を含む芸術は、鑑賞する人のためという以上に、
創る者、表現する者のために、まず存在する、存在できる。

鎮魂ではなく、共生。
母もこっちのほうがうれしいはずだ。

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