もうすぐ納骨。なんとなく、ここで亡くなってからの
さまざまな行事が一区切りになりそうな、
そんな気持ちになる今日この頃。
一般には、納骨とはお墓にお骨を納めることで、引っ越しでもある。
思えば、亡くなる10日前、救急搬送されてから、自宅に戻ることがないまま
約三か月で、納骨になる。
お骨を母の肉体の一部とすれば、それはもう、永遠に自宅に帰ることがない。
という考え方もある。
そこで、
そうか、母にもう一度、ピアノを聴かせてあげたいと思いたつ。
お寺からお骨の外出許可(?)をいただき、しばし自宅へ持ち帰る。
亡くなってから初めての帰宅。
実家には誰も住んでいないため、お寺にお世話になってきた約三か月。
せめても、今、短時間でも納骨前に自宅で過ごしてもらう。
そして、ピアノのある部屋にお骨を運んで、ピアノがよく見える位置に写真とともに置く。そして、母の笑顔を横目に、演奏を開始する。
「では、はじめます」
母のための、母ひとりのための、いや、母と私のプチコンサートだ。
葬儀でも歌った「みのり愛」、父との金婚式記念につくった「ひと・文様」
出張先でふるさとのことを思って生まれた「みず・つち・ひと」、そして長良川の鵜飼を描写した「おもしろうて・・・」と母やふるさとにまつわるオリジナル曲。さらに、3歳のころ、オルガンを始めた頃、母と並んで一緒に弾いた唯一の曲「悲しき天然」を弾き、歌う。
母の写真から、拍手が聴こえてきたように感じた。そして、笑顔が飛び出してきそうに感じた。
ひととおり演奏してから、
「ありがとうございました。」
と、なんどもなんども言う。
「ピアノを習わせてもらって、ありがとうございました。」
「こんなに立派なピアノを買ってもらって、ありがとうございました。」
いろんな「ありがとう」を母に伝えた。
私と母を結ぶものは、ピアノ・エレクトーン・歌。そう、音楽。
好きなジャンルもすべて違うけれど、
音楽という絆で結ばれていたのだと思う。
特定の形は亡くなっても、まさに無形の存在として、
生き続ける母との「関係」。
そう、人は個としての死以上に、その人との関係が大切で、
そのつながりが強ければ、その存在は永遠だ。
そんなことを、直感できたひとときでもあった。
母は長い旅に出たばかり。いい旅をしてほしい。