何のため?なぜ?を問うこと。

東京オリンピックの開催について、海外では懸念の報道が続いている。
ますます増えている。日本は大丈夫か?と不安視する論調も多い。

パンデミックとオリンピックは全世界が対象ということで共通しており、どの立場から見たらプラスの意味合いを見出せるの?と常識ある人、というか、まず普通に考えたら、ありえない。
と思うが、強行の動きが止まらない。

何をするにも、何のため?なぜ、それをするの?
そこの理解、合意は大変重要だ。

そこをちゃんと考え、また関係するすべての人にわかりやすく示し、理解いただけないと成功はしない。

どんなこともそうだ。
何のため?なぜ、今それをするの?
よく考えよう。
そこが、全ての行動の原点だ。

だから、今回の、無理やり「平和の祭典」をいう冠をつけようとしているコロナイベントの開催は、大変心配だ。
何のため?が見えないまま、不安だけが漂っている。

ひとつひとつの行動に「何のため?」を問うことは難しくない。
発起人が、関わる人がしっかり意識し、表現すればよい。
本来、すべての仕事、すべての活動には、意味がある。
より生きる、よりよくなるための行動であるならば。
「何のため」を、伝えられないのは、利己主義な内容であるから。
やましいと、言えないのだ。

今こそ、どんなことにも「何のため?」「なぜ行うの?」と問い続けよう。

「何のために生きるの?」この応えは難しいが、
それでも、このことも、生きる限り問い続けたい。

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