母の死について、多くの方から、さまざまなかたちでお悔やみ、お見舞いの言葉をいただいた。本当にありがたいと感謝している。
そして、自分自身にそのつらい経験があったり、より身近な体験として思いを寄せてくださったり、または私(や家族)の立場に立ってくださる方の言葉は、同じひと言でも、しみじみと伝わる何かがある。
経験がない、また身近ではない場合とは違う伝わり方である。
ふと思い出す。
20代会社員のとき、とある勉強会でお世話になっていた、当時60歳前後のある企業の部長さんに久しぶりにお会いしたとき、
「いや、妻が亡くなりましてね」
と言われたとき、
「そうなんですか、それはそれは…」
と言いながら、どうやっていいかわからず、なんだか中途半端な言葉になってしまったことを思い出す。
その当時、自分にとって大切な死というものが、身近でなく、また経験がなく
そういう会話にも慣れておらず、
薄っぺらい言葉になっており、失礼したな~と今でも思い出し、少し悔いがある。もっと寄り添えなかったのかな・・ということだ。
今、お会いしたら、きっと違う気持ちで、違う言葉をかけられたと思う。
長く生きる。いろんな経験を積む。それらを重ねることで、たとえそのことズバリの経験がなかったとしても、相手の立場に立つことができたら、かける言葉も変わってくる。
生きていくということは、楽しいことばかりではない。
まさに喜怒哀楽。それを重ねることで、相手に寄り添い、相手のことを思いやることができる。
今回、その大切さが身に沁みた。
言葉がキレイでなくていい、うまくなくていい。
相手に伝わる言葉は、そこに心があるかどうか。だ。
心ある言葉、心ない言葉。
不思議に、言葉からはそれが透けて見える。見られる。
今回、いろんな言葉をいただくなかで、この言葉ひとつからも、さまざまな学びをいただいている。
やっぱり、寄り添う人になりたい。そういう人でありたい。
自分がそうしていただいているように。
二か月以上たった今も、ありがたいお言葉、応援をいただく。
次はお返しをする番だ。