父は地元の学校を卒業後、縁あって、隣町の制帽会社へ。丁稚奉公というかたちで帽子づくりをカラダで学び、定年するまでの半世紀近く、ミシンを踏んで、
数多くの帽子を作り続けた。20代の半ば、そこで母と知り合い、結婚したようだ。自宅から車で1時間半か2時間はかかる岐阜県の山あいの縫製工場にもよく出張し、パートさんたちと帽子づくりに励んだ。「今日は、金山だ。」「今日は神岡だ」と今思えば、遠いところへ週に何度も車で移動していた。いつも母がつくった弁当を鞄に入れて・・・。
高度経済成長の昭和の後半、スポーツも盛んとなり、ユニフォームとしての制帽はアパレル産業と比例し、繁栄した。大手のスポーツウェアの企業から大量注文が入っていた時代もある。時間内で仕事が終わらない分は、家で両親が内職をしていた。そう、昔住んでいた家の奥には、工業ミシンのある薄暗い仕事場があった。昼は会社で、夜は家でと、帽子づくりをせっせと続けた父。
そして、球技が好きで野球観戦はもちろん、自らも60代まではソフトボールをやっていた。若き頃は、社会人野球のような活動もしていたようだ。
昭和40年代後半から50年代。ファッションとしての帽子も流行り始め、父も若いころは、婦人帽づくりにも着手、今ではちょっと想像しづらいが、マダムがおしゃれな洋装にコーディネイトするようなハット類も作り、業界のコンテストのような場にも出品したことがあったような・・・。帽子業界花盛りの時代だ。
そんな帽子職人の父。手先は器用。でも口はかなり下手。コミュニケーション苦手が職人の道に向かわせたのか、職人を長くやっていくうちにコミュニケーションは要らないとなったのかわからないが、とにかく、営業ではなく職人向きの父であった。言葉足らずでひと言で片づける会話で、家庭内の喧嘩は絶えなかった。
それはそれとして、とにかく父はその会社で帽子職人職人として定年まで働き、がんばりぬいた。帰宅後の愚痴を吐きながらの晩酌の様子がなぜか、思い出される・・・。
最近、そのときの給与明細の束が母の荷物から出てきて、胸がいっぱいになり・・・。
この町工場の帽子職人の仕事のおかげで、私はピアノやエレクトーンをはじめることができた。帽子に食べさせてもらい、帽子で大きくなり・・。
そう、生涯、帽子には足を向けて寝ることはできない。
つい最近、父が暮らす施設を訪問した際、瞬間面会できた父の頭に、青い帽子をちょこんとかぶせた。
以前は、海外出張すると各地の球団の帽子などをみつけては買い、父へのお土産とした。そのときの、NYヤンキーズのものだ。
帽子をかぶると、父が昔に戻ったように感じた。父は少し反応したように見えた。少しは昔を思い出したのだろうか?
父と帽子と、球技。
近々、父がお世話になった会社をたずねようと思っている。
父がお世話になったおかげで、今日自分がこうしていられる。
扱いづらい職人を解雇もせず、長く雇っていただき、そして定年後も安定した暮らしができてきたのも、この会社のおかげ。
帽子を見ると、いろんなことが思い出され、胸がいっぱいになる。
町工場でものを作る職人の人生。
世界中、日本中にそんな職人さんは多くおられることだろう。
その職人ひとりひとりに、人生が、感謝のドラマが詰まっていると思う。