出発、終着。駅の回想。

物心ついてから私が岐阜から外に出るときには、必ずJR岐阜駅を利用してきた。
近場であれば、名鉄電車もあるが、地元を離れ、遠くに行くときには、「国鉄」岐阜駅を利用した。思えば、青春18きっぷを使って東京、横浜への初遠征も懐かしい。その後、岐阜の家を出て、ひとり暮らしをするため京都に行くときも、岐阜駅から乗り継いで行った。帰省するときも同じだ。
社会人になって、東京転勤してからも、名古屋で新幹線を降りて、岐阜駅まで乗り継ぐ。
よく親が迎えにきてくれたものだ。
「何時に、岐阜駅着くわ」
事前に電話入れておくと、いつも早めに岐阜駅の中央改札で、仁王立ちになって
母は待っていた。
そう、いつも岐阜駅まで父がアッシー君となって迎えに来てくれた。

そして駅ビルにいろんなテナントが入るようになって、回転寿司を一緒に食べた。
駅で待ち合わせして、寿司を食べる。父は昼から生ビールを飲む。
親にとって岐阜駅へのお出かけは、ちょっとしたハレの日で、家族サービスのひととき。
実家に帰る時間がとれないときは、駅で食事をして、お土産やときにはお小遣いを渡したりして、ときにつまらない喧嘩もして、そして別れた。

昔よく観た映画「ひまわり」での駅の場面、主題曲が流れると泣き続けたことがある。駅というのは、クライマックス感満載だ。出会いと別れ。出発と到着。
人生の縮図である。

だから駅が好きでもあるが、今となっては、一番馴染み深い岐阜駅には、思い出がありすぎて、、、たまらない。

コロナでがらんとしている岐阜駅の出口に立ち、母がいつも待っていたときの
ことを思い出したら、涙が奥から湧いてきた。
しばらく、駅ではこんな感情になるのだろう。
仕方ない。それだけ通った、それだけ多くの思い出が詰まった場所だ。
思い起こせば、駅と親。さまざまな葛藤とゆるしのドラマがあった。

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