子どもにとって、親は親でしかなく、常に最も身近な存在で、他のどの関係よりも、好むと好まざるに関係なく、密接に関わり合う。
また、人により、家庭によりその関わり合い方も違うが、私の場合は、
近いからゆえの葛藤もあり、それがあっての成長もできたとも思い、それが
感謝にもつながっている。
親は絶対と思わされてきた幼少の頃。そういう時代であった。その反動もあったが・・。今のように、親を友達のような・・・とは思えないそんな時代を生きてきた。
でも、従属する存在でもない。別の存在。でも、親である・・・。
この難しい関係が、死という局面で終わりをつげ、今度は思い出、記憶の中での新しい親子関係に代わっていく。そんなことに最近、気づき始めている。
遺品を片付けながら、この人はこういうことをしていたのだ、こういう癖があったのだ、こういう好みがあったのだ・・・こんなつきあいもあったのだ・・・。
これまで見えなかった母の新たな一面が見えてくる。
そして生前仲良しだった近所のおばさんたちが心配で、時々会いに行くと、母の死を、今も寂しい寂しいと、悲しんでくださって、まだ涙を浮かべてくだって・・・。
この方にとっては、母はかけがえのない親友、よりどころであったのだ。
と、母が子供に見せていた以外の一面を、死が見せてくれる。
母は、ひとりの人間として、こういう人生を生きた、こういう人だったんだ。
向き合っているときには見えなかったことが見える。
あとで見えてくることがある。
これはその人の人生の意義をみつめるなかで、大変有意義だ。
いえることは、いろんな側面を知るにつれ、それでも、やっぱり自分の親であるということ。
自分に見せなかった部分も含め、見えなかった部分も含め、ひとりの人間としての母に、思いがこみあげてくる。
死はその人を知る一つのステップ。
と、今はそんな風に思い始めている。
人の一生が見えてくるとき。
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