母の死は、確実に私を新たな世界に導いている。
葬儀関係、お寺、石材店といった、これまで無縁であった世界、業界の方との接点。ああ、こうやって、人の生死は社会の中で賄われていくのだということを実感。まさに、人生は観覧車のように・・・。これまで私が乗っていた観覧車は「死」に触れることがなかったため、今回のことでさらに世界が広がった感じだ。
私自身は、無宗教だ。宗教についての思いや考えはあるが、特定の宗教だけを
信仰するということはない。
どの宗教にも固有の歴史があり、生臭い面もあったり、各時代の世情、世相と深くかかわってきており、ときには人を助けるが、ときには人に不幸をもたらすこともある。
宗教戦争ほど、悲しいものはない。結局、権力闘争か・・とがっかりしたり、
男社会の権化とも思える一面も感じ続けているため、自分自身にはとくに宗教はない。
しかし、それは私自身の考えであって、母の願いは願いどおり叶えねばならない。そんなことで、ここのところ、お寺さんとの交流がはじまっている。
そして、この関わりでは、地域社会におけるお寺の役割について、考えるいい機会をいただいている。
人の一生の終わりをきちんと結び、浄土(といわれる世界)に亡くなった人が旅立ち、そして残された家族の悲しみも癒えるように・・・そんなケアをされるのがお寺さんの大切な役割である・・ということが今回わかってきた。
母が亡くなって、真っ先に連絡したのは葬儀社とお寺さん。
何も知識がないなかを、この道のプロが指南、そして流れにのってことが運ぶ。
おかげさまでなんとか役割を果たすことができた。
そして、新たな発見もいろいろあった。
今回の母の葬儀関係で感動したことのひとつは、お経の声だ。母がよくしていただいたお寺の住職がお読みになったお経は、本当にいい響きであった。その響きだけでも母が浄土に行けそうな気がした。お経とは、キリスト教でいうところの讃美歌にも通じる、音楽的要素がある。なんてことを感じながら手を合わせ、
拝聴していた。
また、それを聴きながら小学生の頃、公民館でいやいや通わされたお経教室のことも蘇る。母に行かされたな~。それにしても、ああ、このご住職、いい声だな~。お経読むには、声が命だ。
また、読経後、ご説法される時にも、ユーモアたっぷりの話し方に、お人柄を感じた。この方なら安心して色々相談できるな~と思えた。
また、この葬儀前後の段取りについては、ご住職だけでなくお寺を切り盛りされる、坊守さんの存在も改めて知りながら、お寺という仕事はこういう役割分担で回っているんだ。と感心したり・・。
そんなことから四十九日、納骨の日を迎えるまでに、お寺さんとのやりとりが続く。
母が生前お世話になった、おつきあいがあった方たちだからこそ、信頼して
お願いできるという面も大きい。
どんな仕事であっても、仕事ぶりだけでなく、人として見る、視る。
その興味関心から、つながりが生まれ、関係が育まれる。
知らなかった世界との出会いは、母の死が与えたこと。
これは、悲しみ、寂しさと引き換えであるが・・・。
「母」の存在を介して、これからも新たな出会いが続くことだろう。