名前はブランド。

今、改めて夫婦別姓について、公的な場で、あれこれ議論がなされている。
もう半世紀前から、そのことは気になっていたし、
結婚って何だろう?姓って?家族って?夫婦って?と疑問がどんどん沸いてきて、なんだか日本社会が窮屈で、古臭くて、いやでいやで・・・。
そんなことからか、未婚ではなく非婚という意思でもってこれまで来た。
結婚したら、一人前みたいな考え方は、まったく受け付けなかった。
また、結婚という契約で、どちらかの氏名が変わることに抵抗がないのだろう?
名前って、自分の一部ではないのか?名前は自分のアイデンティティではないのか?海外の多くの国では、結婚しても名前を変えないで、そのまま生きていけるのに、なぜ、このような今の時代に陳腐なスタイルがいまだ、残っているのか。
との疑念もずっと消えないまま、世の中が変わっているのに、一番大切なところが変わらない。

名前はその存在のブランドをあらわす。もちろん自分では命名できないから、
いろんな思いで改名する人もなかにはいるが、ほとんどの場合は親から授けられた名前をもってひとりの人生を生きていく。
名前があってこういう人になってほしいという思いがあって、そのように育てられたという人もあるだろう。
名は体を表す。その人自身を表す。パーソナリティを表す。

しかし、日本の姓は、家をあらわす。個の前に家がある。
家の存在が、姓の問題を浮き彫りにした。
家制度が、いつまでこの国に根深く残り続けるのだろう。
時代にあった家族というカタチがあるというのに、本当に時代遅れ
な国である。

今さらのことを、今まだ時間を割いて、無駄なお金をかけて話し合っている。
名前は、存在である。
と私は思っている。今尾昌子という商品が生きている。これが違う名前だったら、きっと違う内容になっていると思う。

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