自己表現と心の場所

残念なことに、自分勝手ゆえの行動、しかも常識で考えられない行動に出る人が世の中に増えてきているようだ。文化遺産になっているような由緒ある寺院に油をまいたり、通りがかりに人を殺傷したり、飛行機を墜落させ、自らの命とともに無関係の人たちの一生も奪ってしまったり、遺跡を無残に破壊したり・・。
いつの間に、人間はこんなに自分勝手になり、勝手な自己表現をし、他人や罪のない対象を破壊するようになってしまったのだろう。ある人によれば、いつの時代もそんなもんよ、歴史は破壊の繰り返しと言う人もいるが、そうであるならば、人間は根本的に進化していない動物、もしくは退化しているのかもしれない。
人として、どこかで道を間違えてしまっている人たちがいる。そのことを周囲も気づかずにいる。
田舎で、老いたわが親たちがこういう。「うちの近所で、子供たちに注意もできん。いつ、火をつけられるかわからんから。うかつに注意もできん。うちから離れているところであればまだいいが。恐ろしい世の中だ」この会話を聴いて、本当に恐ろしい世の中になってしまった。
その昔、田舎では他人の子供であろうが、みんな注意をして、みんなで地域の子供を見守った。悪いことは悪い、あかんことはあかん!そしていいことはいい!それをみんなで確認し、子供たちは怒ってくれる大人のことを畏れをもっていた。
子供だけではない、大人も然り。一見、犯罪とはいえないけれど、満員電車でも、平気な顔して自分がスマホを見る場所だけは優先して確保する若者、満員電車の中で、平気で化粧をする女子、食事をする女子・・・。これも無意識なる自己表現のひとつだ。一歩外に出ている、公的空間にいるということを意識していれば、このような態度、行動にはならない。
どこで、誰が自分を見ている、どこで自分は何をなすべき。これらの基本的な行動、また常識、マナー・・・といったものがトンでしまっており、それを周囲が無関心になろうと目を背けることが、今日の社会問題に結びついている。匿名の情報発信も無関係ではないだろう。
声を張り上げ選挙活動に励む政治家さん、経済の発展云々ももちろん大切ですが、それよりもおかしなことがない世の中にしていかねばならない。そのことが社会という枠を守るためにもっとも必要じゃないでしょうか?
みんな、それぞれ自己主張、自己表現。どうも、同じ地球にみんなが住んでいるという一体感、共存、共生感が希薄になっていることが悲しい。その行動、「その心はどこにある?」と、思ってしまうのは私だけだろうか?

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