ぼけても会話を楽しむ

親の知人たち。80歳を超えた人が多い。
もちろん個人差がある。すべての人がではないが、ぼけている人も
ちらほら・・。
自分の親においても、同じことを何度も言うのは当たり前、明らかに意味不明な
コトバを平気で、真顔で連発する。
そこにいちいち反応、反発するのはもういいか。
「ボケてると思って、ばかにするな」
こんな言葉も痛い。

ボケてきているのは母だけではない。
近所の喫茶店で、あるおばあさん。
「昌子ちゃん、お母さんどうやね。」
どうやら、まだ入院しているか、施設にいると思っておられるらしい。
「あ、もう家に帰っていますよ。まあ、元気は元気です」
と応えると、そこの店のスタッフが
「何いってんの。〇〇さん、昨日、一緒に定食食べていたやん」
と突っ込み。昨日、元気な母に会っていたのに、忘れているのだ。
しばらく、沈黙。
そして、しばらくしてまた
「おかあさん、どうやね」
と同じ質問をされるので、
「もう、帰ってますよ」
と同じように応えるが、同じ質問が何度か続き、周囲がそのたびに
「何いってんの。しっかりして~」
と突っ込む。ドラマの一コマのようだが、
この喫茶店では、高齢のお客さんが多いため、こんな会話も日常茶飯事のようだ。

ぼけた人との会話。
しっかりしている人からすれば、会話がかみ合わず、違和感もある。
しかし、ぼけた老人同士の会話はどうだろう?
お互いに意味を理解しなかったり、覚えていなかったり、で
会話の中身はかみ合わないし、意志の疎通も難しいけれども、
顔見知りであるということだけで、その瞬間、同じ時を過ごしている
ということだけで、何か安心感が得られるのかもしれない。
一緒にいるということだけで、楽しいのかもしれない。

でも、その一緒にいたこと、一緒に話したこと自体も忘れてしまう
ので、客観的にみるとそのコミュニケーションもどこか切なく、むなしい。

老いるということはそういうことか。
だんだん、かみ合わない会話を聴くことが増え、
意味不明の言葉を浴びる。

会話が成り立つということは、本当にありがたく、また貴重なこと。

相手がまともであった日と同じように、直球を返しても相手には
受けとめられない。
であれば、全力で向き合うのではなく、見守る、優しく返す。
そんなあきらめも含めた、ラフなコミュニケーションの大切さを思う日々。

ぼけても人とふれあいたい。
ぼけても、会話を楽しみたい。

中身ではなく、その行為こそが、生きるために必要だ。
老いるとは、だんだん人間の本質に迫っていくことでもあると
思えてくる・・。



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