週末、探し物があって普段開けない引出しに手をつける。そうだ、ここに住むようになってから約10年の間に届いたもので、要保管の手紙が入っている引出だった。最近では開けることもなかった。久しぶりに整理をと思って手をつけはじめると、この間にいただいたいろんな手紙が出てくる。そして残念なことに、それ以来音信が途絶えている人もいて、「ああ、こんなこともあった」「こういう方からもお手紙もらっていたんだ」と懐かしく思い出し、月日とともに自分の交友関係も変わってきたことを実感する。いろんな方に気にかけていただき、今日があることを思うと、胸がいっぱいになる。そしてそのなかにみつけ、私の心をゆさぶったのは、「最後の手紙」となったものたちである。闘病中の方たちからの、力を振り絞って、あるいは心の整理のために書かれ、出された何通かの手紙たち。印刷されたハガキに手書きにてメッセージが加えられているもの、便箋に何枚にもわたって綴られたもの。いずれにせよ、直筆で書かれている文字から「伝えたい」という気持ちが伝わってくる。詫びておられるもの、感謝の気持ちを述べておられるもの、再会を約束したもの・・。
いずれにせよ、もうかなわない。手紙を改めて読むと、もっとこうしていたら良かっただろうかとも思わなくもないが、それはもうできない。
しかし、その最後の手紙の主人たちは、今も私の頭の上にいてくれているように思っている。そしていつも、私がちゃんと生きていくかどうかを見守ってくださっているように思っている。そう何人か、何人か、悲しいけれど、だんだんその数は増えていく。
まるでそれは、「天空の観覧車」のようだ。いろんな方たちが私の頭上で円を描きながら、くるくると回りながら、見守り続けてくれている。地上の観覧車とは違い、空から、地上を向いてくるくると回るのだ。
あ、いろんな方に見守られている。彼らが生前書いてくださった手紙の数々から、そんなことを想像してみる。
いつも思っているけれど、自分が忘れない限り、その人は死なない。その手紙の主たちは、今も私の心の中で生きている。
ラストレターと「天空の観覧車」
カテゴリー: Essay (Word) パーマリンク