最近、幼稚園の時から、高校時代まで、ずっと通ってきた道を
歩くことが多い。最寄り駅から実家まで、実家から施設まで、駅まで・・。
半世紀前、幼稚園バスに乗って、ランドセルを背負って、自転車に乗って・・・。同じ道を通って、大きくなってきた。
道沿いの川には、桜が咲き乱れ、春は心がうきうきした。
思えば、実家から出て一人暮らしを始める時も、この道を通って
出発したのだ。そのときの気持ちを思い出してみる。
家を出て30余年の時間を経ても、道は変わらずだ。
周囲の家が古くなり、店舗もなくなってしまい・・
一方、新たな家も立ち並び、明らかに道沿いに住む人たちは変わっている。
しかし、
道自体は変わらず、ずっとそこにあり、通行人を目的地に向かわせてくれる。
その道と交差して、中山道が通じている。
江戸時代、この道を歩いて、人々が京都と日本橋を行き来していた。
そんな由緒ある道であるとは、幼き日は意識もせず、近所にある古い周りくねった道として、記憶していた。
この道沿いの街並みも時代とともに、変わってきているが、中山道はあり続ける。道が時代を見ているかのようだ。
今も昔も、ふるさとの道は変わらず。
いつも私の背中を押してくれる。
そう、歩くのが好きだから、道を感じるのが好きだ。
生きること自体、人生という道を歩くということだ。
どの道を歩くかが大切。どんな風に、どんな速度で、そしてどっちに向かっていくのかが大切だ。もしくは時には、道をつくることが求められる。
道。道に迷ったら、ふるさとの道を歩いてみてはどうだろうか?
幼き日の自分のこと、親のこと、同級生のこと・・・世界が小さかった頃の
自分に出会うことで、あらたな道の可能性に気づくこともあるかもしれない。
今、懐かしき道を歩きながら、半世紀、自分という存在が生き続けている
喜びをかみしめている。