最終形をイメージして生きる

正直いって、日を重ねるにつれ、高齢化社会という現実が、重荷で息苦しい。
将来に明るい光も見えない。
なぜ、こんな高齢化社会になってしまったのだろう。何のために?
昔はもっと人は短命であり、惜しまれて生涯を閉じた。

人間のあらゆる欲望を満たすための努力をした結果、一見豊かな社会が
もたらしたアウトプットのひとつが、この高齢化社会ではないだろうか。
結果として、何のために長く生きるのだろう?
本当に素朴な疑問である。

生きるならば、出来る限り意味がある生き方をしたい。
そうしなければと思う。
今、日々起こる、さまざまな出来ごとから改めて、
生きる最後の瞬間まで、できる限り、自分らしくありたいと思う。
最後の姿も今からイメージしておく必要がある。
最後は頭も、カラダも壊れていくのだろうが、出来る限り、人に迷惑を
かけないように死んでいきたい。

人生、なるようにはならない。
誰かが何とかしてくれているのであって、周囲のお世話になっているので
あって、決して、なるようにはならない。

年寄りだからといって、学ぶことをあきらめた時点で、崩壊が始まるのだと
思う。最後まで学ぼう、吸収しようという意気込みが、人生を実りあるものに
していく。

周囲の反面教師に今、学ばせていただいている。
たとえば、ひとつの最終形イメージ。ピアノを弾いているときの突然死。
それはさすがにならないか・・・。
でも、いい終わり方をイメージし続けると、そっちに行けそうな気がしている。
とにかく生きるということは、いのちを全うするということ。でないと、
もったいない。



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