知人に、60代でスペイン語をしっかりマスターして、夢の聖地巡礼を果たした方がいる。かの有名なサンティアゴ・デ・コンポステーラというキリスト教の三大聖地だ。フランスからも、スペインからも、と多くの出発点があるようであるが、1か月ほど歩くというから、すごい距離だ。最近、この巡礼の旅は、ひそかな人気であるようだが、私にはちょっとまだそこまでの気合いはない。
国内でも、お遍路さんは人気だ。歩きながら心を整えることができるのは素晴らしい。世の中と距離をおく時間、ひとりになるひとときは重要だ。
同じ巡礼でも、私は毎朝でもできるショートコース。
私の聖地のひとつは、小学校2年か3年のころから、毎日のように岐阜から
名鉄電車に乗り、名駅から歩いて通った、ヤマハビル界隈。納谷橋の先だ。
ここが私にとっての音楽少女としての成長をさせてくれた、聖地のひとつ。
そのビルが改装こそしているが、今も存在しており、営業を続けている。
毎朝のウォーキングの中で、このビルをひとつの目標地点として定め歩く。
できる限り、子供時代に歩いた道を、わたった橋をそのまま歩き、あのころの自分のがんばりや、さまざまなことを思い出す。
名古屋の中心地、早朝、車もほとんど通らない。ビルの前の道路を見ながら
毎日父がそこに仕事が終わって、岐阜から迎えに来てくれたことを思い出す。
ああ、ここに車を止めて、レッスンが終わるのを待ってくれたのだ。
今でいう、塾帰りのお迎えの親御さんと同じだ。
その当時の父と、今施設に入って、すっかり老いた父、母のことを思い、
胸がいっぱいになる。老いの悲しさについて、あの頃は戻らないというあたり間のことについて・・・。
複雑な介護の日々であるが、この聖地の前に来ると、「ま、やさしくしなきゃ
いけないな。」といろんな怒りや憎しみが、束の間、溶けてくる。
だから、私にとってこのビルは聖地であり、そこを目指す途中は巡礼というわけだ。確かにこのところ、毎朝のウォーキング時もずっと親のことが頭にあり、この巡礼のひとときは自分との対話でもあるのだ。
朝活は、さまざまな目的、意味合いがあるが、私にとっては、ときに聖地巡礼になることもある。
人との向かい方、自分のゆく道について考える。聖地巡礼はそれぞれの人生で自由に設定できる自分だけの心旅である。