見方が変わる。

最近、ショパンのノクターン遺作が気に入っており、その曲が使われている映画や番組を観る。
もう20年近く前に上映された「戦場のピアニスト」。その中でも何度かこの曲が流れる。それを確認したくて映画をチェックしてみる。
ピアノの美しい音色と、戦争の惨さのこの対比が心揺さぶる。
このピアノの美しい音色こそが、戦場でのピアニストの命を救うことになる。
と、このことはもちろん感動するのであるが、今回私が映画や番組を観る時に、これまでと違うフィルターでその世界を見ていることに気づき、そのことに驚いた。
それは、「密」。この「密」が許された世界へのあこがれと、「密への恐怖感」たとえば、コンサート会場の賑わい。大勢の観客の前でのフルオーケストラの演奏。1年前までは、こういった人の集まりについて、何も思うことはなかっただろう。
なのに、今、その様子を映画で見ると、「ああ、もうこの世界はないな。」と以前、各地のコンサートホール、オペラ座に出向き、大喝采の中にいたことを別世界のように思い出す。もうこういう感動の場に出会うことはないのかもしれない・・と思えて、悲しくなるのである。
そして、戦争の悲惨な場面に接する。たとえば、ユダヤ人が集められ、残虐な行為で殺されるシーン。人間を銃でどんどん殺していく。そんなことをしなくても、密な空間を意図的に作れば、弱者はじめ人々をコロナで死においやる・・ことが可能とも思ってしまう。
「密」が凶器になること、狂気になることがありえるのだ。
と思うと、静かに今は戦争の中にいるのではないかという妄想も・・・。

ということで、これまで当たり前に見ていた過去の時代の風景を、現代に置き換えると、とても息苦しくなってしまう。
と、思うのは私だけであろうか?

アーチストとして、生の感動や元気を伝えるコミュニケーションクリエイターとしての生き方について、考えてしまう。

そう、モノの見方、考え方が大きく変わるコロナという媒体。
単にテレワークとか、オンラインとかという手法ではなく、その底辺にあることを忘れないで、どう生きるのか。

今、真剣に考えたい。そうじゃないと、私自身が生きられない。

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