怒りを鎮める力。

父が脳梗塞で倒れてから、もうすぐ一年になる。自宅で普通に暮らして、80歳を過ぎても元気だと自他共に健康だと言っていたのに、あの日から、父の生活も周囲も一変した。入院後、容態が落ち着いた頃、病院に出向き見舞うたびに泣いて、我が身の不自由さを嘆いていた。おかしな話であるが、その頃も決していい状態ではなかったのに、今となっては、まともに会話ができていたあの頃をまだ懐かしいと思うことがあるほどに、時間の経過とともに、その後も父は変化している。今となっては、父が運転して迎えにきてくれたことは、もうずっとずっと昔の物語になってしまい、その父と同一人物であると思うと胸が苦しくなるほどだ。

脳梗塞を患った方の中には、後遺症として怒りやすくなり、周囲に暴力を振るう人もおられるとのこと。記憶が薄らいでいくことは老化現象からもあり得ることで、そのこと自体はやむないと諦めもつくが、怒りの症状は、周囲にも迷惑もかかるし、本人にとっても不幸である。

父はもともと怒りやすい気性でもあったが、それがさらにひどくなっている。ちょっと何かきっかけがあると怒りが発症、爆発する。
そんな場に居合わせると、こちらにもその矛先が向かう。
そのときの父は別人のようで、ある意味不思議な感覚に襲われる。
生活が病気によって一変してしまったことへのストレスもあるのだろう。

そんな父をいつも穏やかにさせてくれるのが、ぬりえの存在だ。たった一枚の輪郭だけの絵。
とにかく何も行事がない日は、施設の大部屋で、自室で、もくもくとぬりえをしている。色を選んで考え、着色していくのが楽しいようで、一日何時間もやっているようだ。そのときの父はおとなしい。
機嫌がいいときは、自分の作品ファイル(自分がやったぬりえを入れたファイル)を見せ、「こんなうまいのを描けるのは、他にはおらん」と自慢する。
そんなときは、「そうやね~。」と、こちらも幸せだ。

今、ぬりえもいろいろある。つい最近までは、ぬりえなんて、子供の遊びと
思っていたのに、今は違う。書店で探したり、ネットでみつけてプリントしたり。大人のための、介護のためのツールとしてぬりえは定番アイテムである。どうやら、父は風景のぬりえが好きなようだ。人物ではなく風景が好きというのも何か理由があるのかもしれない。
1枚の絵に向かっているとき、何を思っているのか?あるいは無心か。

もろもろ職人であった父である。ぬりえに没頭するのは理解できる。
せめて、この楽しみが長く続くよう、楽しめるように応援したい。

人生は喜怒哀楽というが、怒りも哀しみも、この四文字のごとく、喜びと楽しさに挟んで、感じないようにできないだろうか。

父の幸せ・・・今になって、そんなことを言っているのも手遅れかもしれないが
できることを考えたい、と同時に周囲に迷惑をかけないように・・・。
そんななか、今できることは、ぬりえを通じたコミュニケーション。
なんともいえない。これが現実。自分自身が怒りも哀しみも、喜楽で挟んで包んで、乗り越えたい。

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