朝早く、施設の母からメールが届く。
自宅で生活しているときは、毎朝6時にメールを送り続けてきたが、
施設に入ってからは、安否確認も不要と思い、その習慣は卒業。
にも拘わらず、のメールとは、緊急連絡かも?
体調が悪いようだ。すぐ電話をすると、休日にも関わらず、かかりつけ医の先生に電話して、救急車を呼んで・・とか意味不明の言葉を繰り返し、パニック状態になっている。「じゃ、すぐ行くわ。」と言っても、すぐには出られず「9時までに行く」と余裕をもっていうと、「そんな時間まで待てない。もうだめだ~」
これはやばい。急いで、仕事の手を止め、(こういうとき自営業はありがたい)
すぐ支度をして、出かける。駅に向かって急ぎ足で少し歩き始めたら、「あ、もう大丈夫。施設の人に世話してもらった」と電話がかかる。もう~~~。最初から施設の人に言えばいいのに~。こちらの血圧があがりそうになる。「いい、どっちにしても行くわ」
電車を乗り継ぎ8時半ごろ、現地に到着。母は施設の食堂で、少し余裕をもって
小さくなって座っていた。「ごめん、悪かった。本当にお腹いたかったんで・・」それから、母と二人で、久しぶりにいろいろ話した。
最近、振り回されていることが多く、それについて思っていることをしっかり話す。珍しく母は私の言うことを素直に聞き、何度も詫びたり、御礼を言っていた。
このところ、住環境が急に変わったこともあり、母の思いつきに振り回される
周囲。とくに私や妹には直撃だ。
これは何かの練習、経験だ。
経験を重ねて、理解も深まり、きっともっと楽に過ごすことができるようになる。
振り回されることは、一生だとさすがに叶わないが、今のうちだけならば、
まあ、仕方ない。聞けるうち、聴けることは聞けば良い。
悔いない人生には、ほんの一コマ、そんなことも必要だ。
振り回してくれる人がいるだけ、幸せ。と、そんな見方もしてみる。
介護とは、何から何までを指していうのかわからないが、おそらく自分だけを見ていた生活と全く違って、自由が利かなくなってきた弱き立場の人に寄り添うこと全般を指すのだと思う。手を携えて見守る・・。実際はきれいごとでは済まず
疲れるが、逃げるは一生の悔い。なかなかの修行。まだまだ続きそう。少し肩の力を抜いて、適度に適当に。少しでも楽しみや喜びをみつけられればいい。