音の生還、未来に向け・・

20年ぶりのピアノの調律。まずは1台目。今回はグランドピアノからやっていただいた。約4時間。調律師の方が、掃除も兼ねて、丁寧に弦を、鍵盤をひとつひとつチェックしながら音を整えていかれる。
調律師という仕事は、尊敬する仕事のひとつでもある。もちろん自分にはできないことだ。ピアニストがどうがんばっても、いい音は出ない。楽器あっての演奏となる。しかし、ピアノの消費が低迷する今日、調律師という仕事も貴重な存在となってきているようだ。
じっと、ピアノの前に座って、耳を頼りに静かに音を調整。時々部屋から漏れ出るピアノの音色の変化が気になり、まだかな?まだかな?と何度もピアノに近づこうとするが、調律の妨げにならぬよう我慢、我慢。
「作業が終わりました」この声を聞こえ、待ってました!と、部屋に駆け込み、ピアノのそばに歩み寄る。
ピアノが光っていた。生き返ったようだ。笑っているようだ。
きれいになった鍵盤の上を指を走らせてみる。あ、このタッチだ。やわらかく、よく響く、明るい音。とても懐かしい。これがY社のピアノだ。
「とてもいいピアノです。これだったら、コンサートでも十分いけますよ。」
調律師の方に褒めていただけるとは、なんと光栄なこと。
なんどもキレイなピアノのフォルム、弦のデザイン、鍵盤の少し黄ばんできた色つやを楽しみながら、このピアノとのわが生い立ちが、走馬灯のように浮かんできた。

40年前。毎日この音色と一緒に過ごした。ベートーベンも、ショパンも、リストも・・・。ひたすら弾き続けた。親に怒られた日もピアノを弾けば免罪符のように怖いものなしであった。ピアノを弾いているときは、本当に自由で、自分の世界であった。そんな喜びを子ども時代から体験していたとは、なんという贅沢なことだっただろう。その時の喜びがくっきりと蘇る。
しかし、今はあの頃のように指は回らない・。暗譜したはずの曲もところどころ忘れていて、完全演奏ができない。でも、大人になってから覚えたタンゴやワルツなど、演奏ジャンルは広がった。クラシックだけがピアノの愉しみではない。
あれこれ記憶を辿りながら、しばらく、昔弾いていた曲を弾き続け、ああ、下手になったな~と悔しい思いも抱きながら、美しい鍵盤の響きに胸が高まる。

未来に響く、素敵な音色。無形の美が、明日への希望にもつながる。
久しぶりに何とも言えない、幸福な気持ちになり、苦労してこの経験と楽器を与えてくれた親に感謝の気持ちが湧いてくる。

新たな人生のステージづくり。しばし、コロナも忘れた。
素敵な2020年になりそう・・と思えてきた。ベートーベンも微笑んでくれそうだ。



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