コミュニケーションの履歴はお宝。

ある親しき方より、この一年半にわたる私とのメッセージの往来を見返し、有意義な月日だったと、感銘したとのメッセージをいただいた。そういえば、おそらく100通以上の往来があった。ビジネス、社会情勢、人生・・・さまざまな内容について気が付いたら、送っていた。気になれば応援の言葉を送り合ってきた。

とくに何も決めず、よいしょもなく、強制もなく、お互いに自然に応援し、刺激し合い、敬意を表し続けての時間。きっと何があってもこの方はわかってくれている、見守ってくれているという、そこはかとない信頼感。ずっと顔を合わせなくても、人は大切な人のことを忘れることなく、ずっとその存在を見守ることができるのだ。そんなことも学んだ。

人とのやりとり。ともすれば、言いっ放しになることもあるかもしれない。
自分の言いたいことだけ、言いたい放題。が多い時代。
実は聞いてもらえるありがたさに対して、もっと謙虚にならなければならない。

生きる以上、多くの人とのコミュニケーションはずっと続く。コミュニケーションをとりたい人、やめたい人、いろいろあれど、関わりなしには生きられない。そして、発した言葉は消しゴムでは消せない。慎重である必要もある。
でも、縮こまったり、警戒しているだけでは、いい関係は育まれない。
いろんな人とやりとりを続けながら、そのあるべき姿を学んでいくこと。
この姿勢と実践が大切だ。

冒頭に書いた方のような、お互いじっと長く関係を続けられる人との交流は
一生ものだ。大切にしなければならない。
時々、突然、思い出したときの往信でも構わない。根底で相互信頼があるから。

そして、
ときに人とのやりとりの歴史を見返すことは大変意味がある。

ときに大切な人との会話の履歴を見てみよう。どんな言葉を交換して、ここまできたかが見えてくるだろう。

コミュニケーションは途切れず繋がり続けること。人を大切にすること。

自分を大切にしてもらう前に、まず自分が人を大切に思うこと。
このことから、本当に通じる人との長い関係が始まるのだと思う。
前に進むだけでなく、これまで来た道をたどり、見直す。
死ぬまで、コミュニケーション。この道は長いのだから・・・。
どんな言葉を伝え、いただいてきたか。大切にしたい。

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