声の同窓会。

コロナが私にもたらしたことのひとつは、人生はいつ終わるかもしれないので、
気になる人にはちゃんとご挨拶しておくこと。ということ。
最期のお別れのご挨拶ではなく、後悔しないご挨拶ということ。

ブログにも書いたとおり、その活動の一環、コロナお見舞いは、それぞれに返信があり、年賀状などかしこまったタイミングでない、この非常時にふさわしい内容で、その人のことがより愛おしく、懐かしくなったりすることを実感。

そんななか、10年以上ご無沙汰していた子供の頃からの音楽仲間にも、
コロナ見舞いを出す。
「電話だと長くなるから、手紙にしました」と懐かしい文字で綴られた封書と手作りマスクが届く。この10年以上前のこと、いろんなことを思い出したら、ちょうど本人からショートメールが届き、なんだかさらにとても話したくなったので「3分だけ電話で話したいので、都合いい時間教えてください」というと、折り返しの返事。そこでかけてみる。
声の同窓会が始まった。声も話し方も、方言も変わらない。すぐに顔も表情も浮かんだ。
オンラインでないところが想像をかきたてて良いのかも。

10年以上あっていなかったとは思えない、無遠慮ぶりで、とにかくいつもどおりに話し始める。かしこまらなくてよいのが、旧友なのかもしれない。

モーツアルトの生まれ変わりという彼女に、ザビエルの生まれ変わりという私。どっちもかなりの変人。

作曲・演奏という世界で知り合いあった半世紀ほど前・・・。

気が付けば30分ぐらい話していた。
いっきに10年の時間のブランクは消え、また近いうちに・・といって電話をきった。
声の同窓会。も悪くない。長電話ってときにはいいものだ。そのこと自体が昔に帰ったようだった


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