日常が当たり前であったときには、非日常を求めた。ハレの時間、祭り、普段と違う刺激、消費・・・・。
しかし、今回の感染症パニックは、その「日常」がストップさせられた。
まだ日本ではぬるい、ゆるい措置であったとは個人的には思うけれども、
それでも、明らかにこれまでの日常ではない、動かない、静かな日々が続き、
経済活動も停止。先が見えないことへの不安が、日常化すること。このことが一番の恐怖となった。
今日の次は明日が来る。だから今日もがんばろう!という日常を過ごしてきたのに、明日はもっとひどくなるのか?日本はどうなるんだ?将来は??先が見えないことで、気持ちの方がまず非日常になった。これまで体験したことのない、なんともいえない状態。
しかし、人間は慣れる動物であり、適応する能力がある生き物だから、
この自粛のなかにもなんとか生き延びた。
そして、宣言解除を機に、徐々に日常が戻ってきた。
開いているはずのお店が開いて、「いらっしゃいませ!」の声が聞こえて、
これまでうるさいなと思っていた道路の音も、再び聴こえてきて、それすらも「これ、これ」と懐かしく、気のせいかおしゃれをする人も増えたような、・・・となんだか町も活気づいて見える。
マスクがやたら販売されている光景と、ほとんどの人がマスクを着用している姿は、以前と異なるが、それでも人が普通に生活していることを感じることができることが、なんだか嬉しい。
日常がある歓び。
今、別にお祭りがなくてもいい、申し訳ないけれど、オリンピックなんかいらない。
そんな無理する非日常よりも、普通に働いて、生活が回って、生活というものを回していく楽しみ、生きがいをみんなが感じられたらいいと思う。
今年はすでに貴重な非日常をみんな、生きた。ハレとケというが、まさにケのなかでじっと忍んでいた。
だから、今は普通に生きていることを、ありがたく、愛おしく思う。
コロナは終息していない。気を抜いてはいけないけれど・・・
日常生活ってありがたい。シンプルであるけれど、安心して暮らせるのがありがたい。そんなことにも、気づかされたこのたびのコロナ禍。