ドイツの飛行機は天災ではなく、パイロットの故意による??という奇怪で理解不能な情報に接すると、いわゆるテロ組織が関与しているとかいないとか以上に、もっと危険な世の中であることを現実の問題として感じる。先週も今週も飛行機には何度か乗る。いつも思うのはまず、空への祈り。天候が大丈夫でありますように。次に、飛行機が壊れていませんように。そして変な人が乗っていませんように・・。それ以外のアクシデントも起きないようにと心して乗るのである。これは自分がその手段を選んだ以上、何かおきても自分の責任になるので、選んだ以上覚悟しなければならないのだ。
そして、どこの国だから安心だ、安全だという仮設ももう成り立たない。美術館でも殺されてしまうのであれば、もうどこにいても、まな板上のの鯉と思うしかない。しかもそれは飛行機だけでなく、列車での移動も同じことだ。新幹線だって・・・とても危険である。
本当の安心・安全がほしかったら動かなければいい。・・・かもしれないが、それでは何も生み出さないこともある。動くことでいいこともたくさんある。何もしない安全をとるか、リスクをとって行動に出るか。これは仕事でも同じことだ。
私の場合は、何もしなければ何もないと思えるので、やっぱり動くのである。もちろんこれまで以上に神経を使い、周囲に迷惑をかけることなく・・。乗る飛行機も、良き天気・良き機材・良き人々で無事の渡航・移動ができ、今日まで何事もなく来ている幸運に、改めて感謝だ。
絶対の安心は、やっぱり自分で
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