長年の闘病により、亡くなった方の正式な連絡が封書で届いた。
見慣れないその方の娘さんの名前が差出人。
ご本人からの郵便物でないことがないことが、しっくりこない。
封筒を開けると、お母さまの最期の様子やお気持ちがかかれ、
そして生前のお礼が述べられていた。
終活をしっかりされたお母さまだったから、娘さんにしっかり
伝えることは伝えて旅立たれたのだと思いながら、この印刷物を何度も
読み返す。
闘病最後の二か月がコロナ感染拡大の時期と重なり、そんな中、病院で
最期を迎えたお気持ちはいかばかりか。
それを見守り、そして送られた娘さんのお気持ちは・・・。
最後に喪主としての娘さんの名前が締めくくられていた。
喪主。自分の親を送るときにはその役割を担うことになる。
この方はお母さまの病気とともに、いろんな覚悟をされ、準備を
されてきたのだろうか。この印刷物ひとつ取っても、どんな気持ちで・・。
抗がん剤をやめて、静かに終わりをと決断されてからの約1年。
そういう意味で準備の時間はあったかもしれない。ある日突然のお別れでなくても、気持ちを抑えて葬儀を執り行うことは、大変だったろう。生前よくコミュニケーションされていたとはいえ、、。いろんな思いが交雑する。
人の最期は、ある日突然ということもある。時間がある場合もある。
いずれにせよ、生きているうち、元気なうちにしっかり
コミュニケーションしておかないと、つとまらない。
親のことを思うと、複雑な思いになることがどんどん多くなるが、
いい終わりにできるように努めねば。
人は皆、生きて死ぬ。自分の死を見ないまま、あるのは人の死。
そして身近な人の死には常日頃からの覚悟が必要だ。
さて、自分が死ぬときは・・・喪主はいなくていいかな。