ある方との会話で、旧約聖書にはキリスト教的な教えだけでなく、経営やマーケティングといったビジネスにも大いに役立つ要素が
あるからすごいという話題になる。へえ~。かの有名なナポレオン・ヒルズにせよ、もともとは聖職関係者だったとか?その真偽は
知らないが、解釈次第で現実の社会でも大いに役立つという点は、興味深いと思った。またそれをつくったユダヤ人というのは、やっぱり只者ではないという意見も聴き、確かにユダヤ人は科学、映画、芸術など多方面で人類史上消えることのない功績を生み出した人たちが多いという点からも納得する。
生きる上で、何を教科書とするか、教えとするか。信仰でもなんでもいいが、それぞれの人にとって「人生の教科書・教材」というのは重要である。今の私には、これが自分にとっての教科書だと決められたものはなく、いろんな経験こそがそれに該当すると思っている部分もあるけれど(だから変化も進化もする)、深い信仰があればあるほど、そういった導きを得ながら柔軟に生かし、さらに貪欲な人にはそれを自分流に解釈しながら、現実社会で生きる糧を得られるのかもしれない。
自分のわずかな経験だけでは、すぐれた英知を得るには足りない。もっともっと多くの教え~安っぽく軽い情報でなく~を見聞しながら、わが道を進めていかねばならない。キリスト教を信じながらも、お寺の住職さんとも懇意にされ、仕事をがんばっておられる方とお会いし、いろんな教えを吸収してきた方こそ、いかに心豊かで知的であり面白いことか・・・と改めて思う。
今さらにして、もっと学び、もっと聞き、生きるということについて、もっと深く知り、より充実した道を歩みたい。
何を教科書とするか、何の教科書とするか
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