疑うことはいいことか?

あるお客さんとコロナウイルスのことや、オリンピックのことなど、目まぐるしく変化する世の中の見え方について軽く話しをする。
メディアに対しての見方、とらえ方など自分の考え、自分が普段感じていることをお伝えすると、
「なんでも鵜呑みにしてはいけないんですね。」
といわれる。
逆にその言葉を聞いて、自分が普段から、いろんな情報をその背景やいきさつやその媒体の特性などから見て、自分なりに解釈したり判断していることが、当たり前と思っていたが、情報の受け留め方とは、そうではないこともあるのだということを知り、驚いた。
ついつい、いろんな情報を得るなかで、どれが正しい、どれがホンモノ?これは?とついつい、疑いの目をもって見るクセがついてきているようだ。
素直にそのまま受け入れることを、していない。いつの間にかそういうことができなくなってきている自分。

メディアは権力を監視するという機能が元来ある。しかし、今の世の中はどうか?そのことについて疑念があるせいか、ついつい、どんな報道でも鵜呑みにしない体質になってしまったようだ。

疑うということば。疑うとは疑問をもつということ。
ほんとかな?の目をもつこと。
この目は実は大切だ。

人を疑いたくはないけれど、おかしいものはおかしい。臭う者は臭う。
何が真実だ。何があるべき姿か。ここを忘れずにいないと、権力を監視できなくなっているマスコミの後ろにいる権力者の思うツボになる。

コミュニケーションは送り手の問題も大きいけれど、受け手がしっかりしなければ。
それはおかしい!間違っている。それでいいのか?
その疑問視は重要だと思っている。

最近、ますますその疑念は高まっている。
もちろんいいもの真なるものには、きちんとまっすぐ素直に受け留めたい。
でも、責任をもってNOといえる目はやはり大切だと思っている。

真には心を持って、偽には疑をもって、、、、。受け手であるときには、これをマイルールとしたい。



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