惜しまれる死を。

超高齢化社会の現実は、深刻すぎる。知らなければ知らないで済めばいいが、
そればっかりは選択できない。
おそらく親が長生きすると、その現実と対峙しなければならなくなる。
長生きとは何か、人は何のために生きるのかについて、改めて考えさせられる
ことが多くなる。

人はなぜ長生きしたがるのだろう。
そもそも、個人的にはそれが永遠の疑問だ。
今を一生懸命生きれば、やるべきことをやりつくせば、毎日満足いくように
がんばれば、いつ終わっても悔いがないのではと思う。
なぜ、単に長生きするための消費、努力をするのだろう。
他にやることあるのではと
思うのは、自分がまだ?若いせいだろうか。

もし、長生きしてしまう場合、周囲に迷惑をかけないようにしなければ、
最後は孤独な死を迎えることになる。どうせ生きてしまうならば、
そうならないように、その努力は必要。

と、最近、周囲を見ていて、そんなことを強く思う。

生きるならば、最後まで一生懸命、出来る間は精いっぱい。

無駄に生きては、周囲の迷惑になる。

一生懸命生きれば、惜しまれる死を迎えることができる。

今から全方位的に、人生を見つめ直し、自分の向かう方向はこれで

良いのかと思ってしまう。

何のために生きるのだろう。生きるならば、誰かの何かの役に立ちたい。
死ぬことが選択できないこの世。なかなか、ままならぬ。
人間は、結局は不自由な存在か。
とにかく、いつかどうせ死んでいくならば、惜しまれて、
送られるようにしなければ。
これは決して、暗い話ではなく、前向きな生き、
幸せな一生を生きるために必要なこと。

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