もしかしたら、これで良かった?あいちトリエンナーレ。

あいちトリエンナーレ。開催が迫り、告知する紫色のポスターやサインが街角でも露出、一度は足を運んでみるかどうしようと迷っているうちに例の騒動があり、一部作品展示の中止。そして再開。観に行きたいと思った終盤は混雑が嫌で結局やめてしまったが、この議論にはある意味、問題意識をもっていたし、世間の騒ぎ方も気になっていた。
今もさまざまな問題は山積みであろうし、とくに財政面では心配だ。愛知県民であるからということだけではないが、何か腑に落ちないところはある。
その点は今は脇に置き、「表現の自由と作家」について今回思ったことを記してみる。これは、実際作品を観に行けなかったが、中止となってから作家たちが行ったことを綴ったドキュメンタリーを見ながら考えたことでもある。

アート、芸術作品。とくに美術のジャンルにおいては、それはカタチ残るもの。
音楽とは違う。音楽は目に見えない世界、ひたすら聞き手の想像により、ある世界が生まれ出る芸術で、瞬間の連続で表現される。
美術作品はモノとしてある以上、いろんな人が同時に見て、それについてさまざまな印象、見解をもつ。
その作品がどんな思いで創られたかということよりも、一目見て、そのメッセージを勝手に解釈することもできてしまう・・という一面がある。だから今回のようなことになるという場合もある。
それは特定の政治的意味をもっていなくても、人によってはそう解釈してしまうものでもある。それは、時代やタイミング、情勢によっても変化する。
またどこでそれを発表するかによっても、伝わり方が変わってくる。


今回、そんなことがいろいろ混ざり合って、反対する人が多く出たのだと思う。
でも、この騒動があって、作家たちが実際に、その思いを伝えよう、メッセージを伝えようと反対派の人や、主催者や、一般の人に向けて、積極的に活動を始めた。コールセンターの対応も、作家自らが担当し、反対する人の声を直接聞き、作家としての思いも伝えた・・・。一度、中止され再開されたことで、反対も賛成もしていなかった人が、その作品に興味をもち、足を運んだという例もあっただろう。もしかしたら私もその一人だったかもしれない。

今、コミュニケーションクリエイターとして生きている自分は、完全なる純粋なアーチストになりきれなかった中途半端さがある。しかし、生き方はアーチスト的でありたいと常に思ってきたし、今もそう思う。

アーチストとは、自らの作品をもってメッセージを世のなかに発信する生き方だと思う。人によってはそれに感動するし、そうでない場もあるが、作品から何かを伝えることができる、崇高な生き方ができる人・・・がアーチストだと思う。一方、アーチストは作品づくりに夢中になる一方、なぜそれを創ったのかとかその思いを語ることをあまりしない。また語ることをよしとしないのかもしれない。

でも、今回に作品展でわかったことは、公的な空間で作品を発表するときには説明、コミュニケーションが不可欠ということだ。
モチーフが何であれ、もし何か問題になりそうなものであればあるほど、きちんと事前にメッセージをすることも、作品づくりに折り込まれなければならない。
見てくれる人が自由に感じ取ってくれたらいい。というだけではすまない素材・作品もときにはあるのだ。自由に感じ取ればよい・・・では公的には無責任になってしまうこともありえる。

そう、芸術作品も「人間・コミュニケーション」の一環にあるということ。
言い換えれば、作品を通じ、コミュニケーションすることで、より理解が深まり、議論もされ、その作品によって人々の心がより豊かになったり、考えるきっかけが生まれることになる。

作家はメッセージを。
もっとコミュニケーションを。

この必要性をおそらく、今回、ご苦労された作家たちは感じつつ、この騒動があって見えてきたこともきっとあったのだと思う。

学生時代、「作品があり、演奏者がいて、観客がいる。」この三者一体があってこそ芸術は完成すると学んだ。観客がいないと作品は未完なのだ。

音楽だけでなく、美術もそうだ。もっと鑑賞者と向き合わなけばならない。はい、展示しますから、ご自由に。ではなく・・。

まったくの想像でしかないが、この作品展が東京や京都であれば、NYやパリであれば何の問題もなく、平和に開催を続けることができたかもしれない。愛知、名古屋でであったから、今回のような結末になったと思うが、これは大変意味があることで、作家が一般社会と交流する貴重な機会を得られ、また「パブリック」に向かって表現するときの教訓も多く得られたのではないだろうか。

表現する作家さんや、作品を映像で観ながら、涙があふれてきた。

アーチストという生き方は素晴らしい。やっぱりそっちへ行くべきか。いや、つなぎ目にいるのがいいのか。

いつか、出展された作家さんと話してみたい。

この展覧会は失敗ではなく、大いに意義があった。と思っている、

ああ、行けばよかった・・・。


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