行けるときには、父の入院先に足を運ぶ。ただ、こちらの都合だけで動くし、
見舞いはだいたい約束していくものでもなく、行けなかったら悪いし、行けるときに・・・とあいまいにしてある。
これまでは、偶然かだいたい父と話すことができた。リハビリ前後であっても、食事前であっても、ベッドにいながら目覚め、テレビを見たり、雑誌を眺めたりしていた。
今回は、珍しく眠っていた。
瞬間、どきっとしたが、静かな寝息の音がして、安心した。
リハビリで疲れたのかもしれない。
起こすかどうか迷ったが、しばらく見守り、起こさないでメモ紙にメッセージを書いて去ることにした。
こんなときのために、ノートを一冊置いておくと良いと思いつつ・・。
そのあと、母に容態を電話で告げると
「起こしてやればいいのに。毎日退屈しているんだから。」
という。でも、起こさなかった、起こせなかった。
そういえば、父の寝顔はあまり見た記憶がない。
子どもの頃は、父の方が早く起き、遅く休んでいたのだろう。
そのうち、別々に暮らすことになり・・・よく考えたら、見たことがない。
病院での暮らしは規則正しすぎて、本当に退屈だろう。
そのなかで、決まったリハビリに精を出し、早く退院するぞと
がんばるのだから、それはそれで疲れるはずだ。
眠る父を見て、何かしら、穏やかに過ぎていく時間を感じた。
動と静。覚醒と眠り。生きるということは、この繰り返しであるが、老いとともに静かなる時間が増えていくのだろうか。
病院に見舞うことは、自分にとって、普段と違う時間の流れ方を知る
貴重なひとときだ。
父は眠り、そしてまた目覚める。それが当たり前と思っているが、それが生きているということだ。