不自由になってわかる自由。

香港の現在の騒動を、報道で見るにつれ、胸がしめつけられるような思いになる。
自分の命の危険を顧みず、権力と戦おうとしている若者たち。
人が生きるアイデンティティのひとつが、国である。
自分は何人か。どこの国に生まれ、生きているか。これは生きる上で大変重要であり、自分が生まれ育った国に誇りを持ち続けることは、個にとっても、国にとっても意味がある。但し、最近は、国とは何かもだんだんわからなくなってきている今日ではある。
それは、個を脅かす、個の自由を奪われるとき、はじめて意識するのかもしれないが。
話を戻す。
香港の人々は、自分たちが自由に生きられなくなることへの恐怖から、今回の行動に出ている。民主的でない相手にそれがどこまで伝わるのか、世界がそれをどうフォローできるのか、本当に心配であるが、いい答えがみつかることを心より願う。不自由の危険から身を守る、これは戦いだ。

自由といえば、他者との闘いだけではない。
最近、父が入院し、自分で動くことができないという事態に接し、
人間の不自由について、つくづく考えさせられる。

ちょっと前までは、自由に自分の意志で、動けたのに。好きなものが食べられたのに・・・。今は自分の意志では動くことができない。
すべては他者の指示で、それにそって生きるしかできない。その不自由さ。
「なってみないと、わからん、人にはわからん」
と、父はつぶやく。
何を考えようが自由であるが、体が不自由であるから、生きるのがつらい。
自由であるときはそれが当たり前で、一生続くと思っていた・・・。
それがあるとき、一変するのである。

身体も、心も自由がいい。

今、少なくても今の私はどの状況だ。まさにこれ以上のステージはない。

絶対に無駄にするな。と今、しっかり心に刻む。
人間の一番の幸せは、やっぱり、「自由」なのである。自分の由とかく。
自分が自分である理由。自分らしく生きられる状態。
それが、自由。
改めて意識しよう。感謝して、自由を全うしたい。


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