週に何度かの見舞い。
医療サービスの進化のおかげで、看護はお任せでき、本当にありがたく、
医療や介護の素人である自分ができることは、家族としての見守り、
そして今後のさまざまな準備・・。
リハビリに励む父を見舞いつつ、元気なときにこんな風に話を聞くことはなかったとしみじみ思いながら、入院というきっかけは、何かと大きな人生の転換点であることを改めて感じる
毎日きちんと提供される三度の食事。そして3種類のリハビリプログラム。週に何度かの入浴。すべて介助いただきながら、お世話になり、治療に取り組む父。
このリハビリや食事も、そんな長時間ではなく、それ以外の時間は静かに過ごすしかない。そんななか、来客、見舞い客は一番の楽しみのようだ。
今週は誰が来た、昨日は誰が・・・と話しながら、誰かが来てくれることが
暇つぶしにもなり、世界とのかかわりもでき、うれしいようだ。
病院の中だけの世界は、とても息苦しく、つまらなく、なんといっても自分が自由に動けないからそうなっている。ということを自覚する時間が多いのはつらいはずだ。
とくに、父にとって夜は長いようだ。
病院の就寝時間に寝れば、当然夜中に目が覚め、そのときいろんなことを考えるのだろう。静かな闇のなかで、よからぬことを考えてしまう・・不安も募ることと思う。
「1日が長くて、」
この一言がこたえた。
かといって、今、自分で自分のことができない、動けない身であってはどうしようもない。今はリハビリに専念するのが、彼の仕事だ
父を見舞って戻る帰り道は、いつも考えさせられ、ずしんと気持ちが重くなる。
いつ歩けるようになるのかな?これから、家族はどうなるのかな?
普段の生活が一転するということは、抱えたことのない新たな課題を抱え込むことになる。
普段の生活に、週に何度か病院に行く日を入れる。この往復でも多少の時間がかかる。でも通える距離でよかったと思いながら、
自分の現在の1日は短く、父の1日は長い。
同じ24時間なのに・・・。なんとも心苦しくてたまらない。
いつ、自分も動けなくなる日が来るかはわからない。でも、その日までに悔いないようにしておきたい。そして、そうなったときにも1日を短いと感じられる方法がないかを考えておきたい。
一日も短く、人生も短い方がいい。
単に年齢を重ねるだけの長寿社会は、どこか違う。
1日が短いといえる人生がいい。
最近、わが心情は、日々複雑だ。