対話のツールとしての作品

あいちは日本で初めてトリエンナーレを開催した土地ということで、なかなか新しいことに挑戦すると感心しており、今回は初めて足を運んでみようか?と検討していた矢先、例の少女像の件で、一躍注目され、騒がしくなったため、行くのをとりやめた。
その少女像が、大使館の前や、世界の某所に設置されてきたことには違和感を感じていたし、その表現、その主張の仕方には意見はある。
おそらく、国民のほとんどが、両国の多くが、このことに意見をもっているのだと思う。

芸術とは自由の表現・・であるべきであるはずであるから、できれば、もっと大きな目でとらえ、作品をそのまま展示して、その存在を目の当たりにして、意見交換、ディスカッションすればよかったのではと、個人的には思っている。

不快であると思う作品は世の中に多数ある。
でも、意図があるから、そこに展示されているのだとも思う。
嫌ならば見なければいい。
芸術は発信する自由と、受信する自由があるはずだ。
もちろん、多くの人にプラスの感情、感動を与える作品の方が、作品としての
質は高く、それが作品かどうか?という議論もいろいろあるかとは思う。

などと偉そうなことを連ねて申し訳ないが、とにかく、私が思う芸術は人々の平和や幸せのために存在すべきもの、対話のきっかけになるべきものと思うので、
今回もそうなってくれたらよかったと思えてならない。
コミュニケーションをとるきっかけになれば、関係改善の糸口も見えることもある。コミュニケーションを阻止する、コミュニケーションから逃げる。
今の問題は、そこにある。と思っている。だからこそ、あの像が展示されること
は、双方のコミュニケーションの題材になるという点で、大いに意味があったとは思いたい。

なんだか、稚拙な両国の関係。
関係よくしたいならば、まずはトップとトップが話せばよい。どこ向いてしゃべっているんだろう。
若者たちは、きっとあきれている。
若者のために、いい大人にならなければ・・・。
作品はコミュニケーションツール。

どう使うか、活かすかつぶすか・・。はアーチストの意図と違うところが残念だ・・。
タイミングもあったのだと思いつつ・・・残念でならない。





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